11・西播怪談実記草稿(三方西荘の戦い)1-1
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天文二十二年九月十日頃(1553年10月17日頃)。
播磨国宍粟郡三方西荘。
この三方西荘を更に北上すれば、播磨国と但馬国の国境に、藤無山という山が存在する。
神話の時代、新羅の皇子・天日槍と在地の神である伊和大神が播磨国の所有を巡って争い、占いをもって決着をつけた場所としての伝説が伝わっている。
難波(現・大阪府)に渡ろうとして失敗した天日槍は、播磨国の宇頭川のほとりに船を停留させ、この場所に落ち着く場所が欲しいを伊和大神に願い出る。
しかし、唐突に異国の神が押しかけて来られても土着の神である伊和大神としては困惑するしかない。
伊和大神はとりあえず海の上で待機する分には問題ないと伝えると、天日槍命は突如海をかき回して島を創り出してそこに宿り始めた。
この天日槍の凄まじい霊力を目の当たりにした伊和大神は、これは先に播磨の土地を平定せねば国土を盗られてしまうと恐れ慄き、大急ぎで兵を率いて川を遡り始める。天日槍は天日槍で、そうはさせじと伊和大神を追いかけた。
二柱の神は互いの軍を何度か戦わせながら川を北上したが、一向に決着はつく気配がなく、いよいよ彼らは秘術秘法の限りを尽くすも実力は拮抗。
このままでは双方傷付くだけ。
協議の上、今回の戦の始末は、占いの結果をもって講和の証としようという話になった。
二神は、黒土志尓嵩から黒葛を足につけて投げ、伊和大神の投げた葛の一条目は但馬国気多郡、二条目が養父郡、最後の三条目は宍粟郡に落ちたために三方村と名付けられた。
一方、天日槍のものは全て但馬に落ちたため、彼は播磨を諦め、但馬国出石の地を開いたのだという。
占いの性質上、本来であれば藤のつるが良いとされていたが、二神が探しても一本の藤も見つからず、仕方なしにこの山の黒葛を使用したため、藤無山の名が付けられたのだそうだ。
他にも、川を遡る際、伊和大神があまりに大急ぎだったため、ある丘の上での食事中にご飯粒を大量に落としてしまい、粒丘と呼ばれるようになり、後世では揖保と呼ばれるようになった話や、天日槍との戦闘中、伊和大神が舌に矢が刺さった鹿と出会った土地を宍禾と名付け、それが訛って宍粟になった話など、揖保川沿いにはこの二神の土地の占有合戦に由来する地名が大量に残されている。
そういって七条政範の隣で話をしているのは、赤松三十六家衆の一人、福原氏の嫡男・福原定尚。
彼らがこの場所に居るのには理由がある。
先の九月三日以降、政範に兄の死を悼む暇は無かった。
兄の死が告げられたのと同日、父・政元の鞍掛山城への出向が決まり、政範は祖父・佐用則答の下で、急遽佐用氏当主代理の役を申し使わされた。