10・播州鬼騒動六5-2(菅生表の戦い)
翌、九月四日、夜が白み始めると、菅生集落各所で両軍の遺体が打ち棄てられているのが見つかった。
犠牲者の数だけ数えればそれほど多くはない。合戦初期の突破戦を除けば、宇野勢が終盤攻勢に固執せずに手際よく退いたことが結果的に余計な犠牲者を減らしたのかもしれない。
全ての戦死者は昼までには近くの寺に運び込まれた。
戦死者の埋葬の際、彼らの遺品をあらためる中で、赤松晴政ははじめて昨日の襲撃者が宇野の手勢であったことに気付いたと言う。
赤松総領家にとって、自分たちの御膝元で起きた身内の襲撃事件に対する衝撃は計り知れず、これ以上の国人衆の離反を防ごうと何通もの感状が発給され、宇野氏側も宇野氏側で、逆に国人衆を自勢力に取り込もうと何通もの密書が送り届けられた。
鞍掛山城主・七条正満の傷は致命傷であり、救出後、鞍掛山の陣に運び込まれた時点では奇跡的に呼吸をしてはいたが、意識はそれきり戻らず、陣内部の救護所から動かすことも出来ないまま、翌日の朝を迎えるまでに静かに息を引き取った。
享年、二十六とも二十八とも言われ、遺体は書写山円教寺に葬られた。
残された正満の妻・しげはその後、置塩城内へ引き取られ、一人の男子を出産した記録が残る。しかし、彼女も心労からか産後の肥立ちが悪く、身心の虚弱が続き、翌天文二十三年の夏までには亡くなっていった。
彼女の亡骸もまた、正満と同じ、円教寺の正満の墓近くに埋葬された。
令和の時代となって、実際に現地に足を踏み入れてみたが正満夫婦のものと伝わる墓は歴史の闇に埋もれてしまい、ついに見つけ出すことが出来なかった。
夫婦の墓だけではない。
菅生表における一連の戦闘模様を記した公式の一次資料はほぼ存在せず、他の古戦場よろしく当時の戦いを偲ばせるものは残されていない。地元の人間による口頭伝承や現地の地名が少数残るのみで、それを話す人間すらも昭和年間に大多数が亡くなっている。
その他、付記事項として筆者の手元に複数ある赤松家系の家系図の中に、二年前の天文二十年に七条正満が亡くなっている系図、そして天正元年(1573)に没した記録もあることを付け加えるが、整合性を取るためこの物語上においては伏せておきたい。
西の護り手を失った赤松総領家の重臣達は、新たな城主として再び七条家から人間を呼ぶことを求める声が上がり、何度か新たに嫡男となった七条政範を鞍掛山の城代にする案が挙げられたが、まだ十六という年齢を理由に当主赤松晴政が拒み続けた。
そうした家臣団への抵抗こそが、実の兄の子を失わせてしまったことに対する、晴政なりのせめてもの情けだったのかも知れない。
しかしながら、時の歯車は残酷に回り続ける。
自らの甥が荼毘に伏される黒煙を見上げる赤松晴政の耳に、間もなく始まる新たな戦の足音が確かに響き渡る。それは北西の但馬方面からで、時代は彼に休息を与えようともしなかった。
(追記)
平成十八(2006)年にも、徳島県の旧家より所在不明と思われた資料が再発見されている。今後菅生表の戦いの実態がより深まることを期待したい。




