10・播州鬼騒動六2-1(菅生表の戦い)
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同8月20日(1553年9月27日)。
夕刻、宍粟長水城の南、篠ノ丸城で着々と戦準備を始めていた宇野氏当主・宇野政頼は我が父ながらよくぞやってくれたと、小躍りしたい気持ちで一杯だった。
彼は、父が七条正満と結んだ約定を何一つ守る気がない。
否、守っていては尼子氏の不興を買い家が滅びるのだ。西の怪物に比べれば、日に日に衰えていく主家に牙を向けたほうが何倍もマシに思える。政頼は彼は彼なりに、限られた時間の中で次なる生存への道を模索していた。
北の山名氏の侵入に備えて築かれた置塩城は、夢前川を堀に見立てた播磨国最大級の堅城。六十以上ある曲輪群を守る赤松晴政の直接指揮下の兵士は少ないとはいえ、正直、宇野氏独力では手に余る。
ならばどうするべきか。
その答えを、政頼は置塩城の北東に見出していた。
置塩城の北東部に位置する恒屋城。恒屋川を挟んだだけでそのまま置塩城と相対する城郭であり、城主の恒屋氏らは有力な播磨国人衆のひとつである。
宇野氏にとって都合の良いことに、恒屋氏と赤松総領家との仲は良好ではなく、いつ総領家と戦になっても良いよう、恒屋氏らは置塩城方向である恒屋城主郭部西面全体を畝状堅堀で防衛を固めていた。
彼らも彼らで播磨国でのし上がりたいのだが、やはり独力では力不足。
それ故に、政頼はそんな恒屋氏の心をくすぐった。
来月九月三日、宇野は置塩城を西の宍粟郡から攻め上がるので、恒屋は北部の香寺方面から攻め寄せてほしい。力攻めはしなくていい。単独では総領家に勝てない我らであるが、力を合わせれば兵力は倍以上となる。二正面作戦ともなれば、戦下手の赤松晴政では凌ぎ切れずに慌てて逃げ出すに違いない。
そうなれば、尼子殿からの覚えも目出度く、出雲衆との取次ぎも宇野が間を取り持ってみせる。上手く晴政を追い落とせば、播磨西部諸侯も再び尼子氏に靡くに決まっている。
恒屋氏らはこの話を聞くと、すぐさま飛びつき計画を煮詰めたいので一席設けたいと申し出てきた。
なんとも妙案を思いついたものだと政頼が自画自賛気味に笑う。
その他、戸倉、菅生などの道中にある寺院宛にも、付近の集落への焼き働きや略奪を行わないことを条件に、宇野兵がどこに現れたとしても置塩の赤松総領家には知らせないよう約定を取り付けている。
後は、置塩城の西の守備・鞍掛山城。あそこさえ押さえてしまえば、赤松晴政の咽喉元まで手が届く。
ああ、そうだ。実に面白いことが起こる。
小さく政頼の咽喉の奥が鳴ったのを、一陣の秋風が連れ去っていった。




