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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第七章・播州鬼騒動五【天文二十二年(1553年)~】
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09・播州鬼騒動五3-1


―3―



 同七月二十日(1553年8月28日)、宍粟郡山崎長水城。


 この年の尼子軍の播州侵入の後、播磨国人衆各々が家名存続の為に自勢力の旗色を伺い合う中、西播磨で一早く親尼子を表明した宇野氏の命運は非常に微妙なものとなりつつあった。


 一体、どうしてこうなったのか。

 

 赤松氏御一族衆の宇野氏は領内を流れる揖保川の水運と地元の鉱山群から得た利を含め、西播磨の影響力は主家を優に超えていた。父・宇野村頼(うのむらより)の時代には、それでも赤松総領家を支えねばという考えもあったが、度重なる尼子軍の侵攻を前に為す術のなく敗北を重ねる主など見限るしかなかった。


 そうでなくとも大物合戦以降、赤松総領家を見る宇野一族の目は冷ややかなものである。時代の流れに翻弄され続ける赤松晴政を廃し、自分達で新たな分国支配を試みるべきだという旨を足利将軍家にも伝えたこともある。


 全ては主君の力量なく権力の座に座るのが悪い。

 

 領地に近い備前浦上氏とは親交が深く、現当主の浦上政宗ら親尼子派閥とは幼き時代より結び付きもあった。備前国は室津の政宗軍が、播磨は宇野一党の軍勢が先導役となれば、勝手知ったる播磨の国土など尼子の軍勢が(たちま)ち平らげてしまうだろう。

 

 あわよくば、その功績で自分達が播磨の支配者となったところで、それこそ時代の流れと余人どもの口も塞いでくれるに違いない。なにも主家の退場を裏で画策している赤松一族は宇野氏だけではないのだから。


「何処で、読み間違えたのか」


 既に、宇野氏当主・宇野蔵人政頼(うのくろうどまさより)の指示のもと、宇野一党は赤松派に属する家臣達を粛正することで出雲尼子氏への忠誠の証を示し、同じ尼子一族の有力者・尼子国久(あまごくにひさ)を通じて尼子氏与党への参入を認められている。


 政頼は、先の高田表の(いくさ)において、一族の宇野刑部少輔に尼子軍の手引きをするよう手勢を与えて向かわせていた。しかし、なにをとち狂ったか、刑部少輔は備前独立派と馬を並べ、あまつさえ備前勢崩壊の好機にも関わらず播州作州の勇士七百騎と共に奮戦し、敵総大将の窮地を救ったのだと聞く。


 じんわりと左手を握ると、虚しさだけが宙に浮かぶ。


 出雲の尼子宗家からは宇野一族への詰問状が届けられ、尼子国久ら新宮党からは政頼に対して刑部少輔には然るべき責任を取らせるべきであり、証を立てる事で宇野一族の立場を今一度明確にしろという指示が出ていた。


 政頼は、父・村頼の時代から幾度も配下の広瀬衆と共に戦場を駆けている。広瀬衆が裏切ったのではない。宇野刑部少輔だけが裏切り、偽りの情報で宇野一族の悲願を見るも無残に踏み砕いてくれたのだ。


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