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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第七章・播州鬼騒動五【天文二十二年(1553年)~】
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09・播州鬼騒動五2-1


―2―



 同、七月十六日(1553年8月24日)昼。


 備前天神山麓、新城普請に向けて建てられた浦上宗景の仮屋敷では、当主の宗景が深い皺を眉間に浮かべながら両腕を組み、心中落ち着かない様子で胡坐を組んでいる。


 彼の案件は、手元に置かれた二振りの小刀。

 宗景とて、戦国大名の端くれ。目利きの審美眼と知識は、人並み程度には持ち合わせている。この二振り、恐らく元は一つの太刀。真っ二つに折れた刀身を同時期に打ち直し、小太刀と守り刀に改め直している。


 身幅は広め、重ねは厚く、元先の幅差は少なく、腰反りは高い。中峰のつまりはどしりと猪首風。小板目は小気味良く積まれ具合、地沸の厚さ、緻密な地景。地金は冴えて乱れて写り、何より鮮明さの欠如が無い。むっくりした互の目風丁子、帽子は直に先小丸、横手から湾れる独特の三作帽子。


 間違いなく備前伝の流れを汲んでいる。


 彫られた銘から、鎌倉期の名工・備前長船長光の後期作。


 そして、宗景はこの刀を知っている。

 否、その由来を厭というほどに聞かされている。


「……我が父の形見、高國様の御形見か」


 摂津国の戦地に向かう際、宗景の父・村宗は鮮やかな緋色縅の黒鎧を身に着け、分かたれる前の太刀を佩き、当時城下で最も高価な葦毛の軍馬と共に、備前国を後にした。


 朧げな記憶の中に、厳めしい武者姿の背中を覚えている。ものごころの付くか付かぬか、それが宗景の見た父の最期の姿だった。


 畿内の戦地での父の活動は広範囲に及び、詳細は杳として知れない。

 だが、山城国での合戦の際に太刀は折られ、先祖伝来の品を捨てるのは惜しいと現地の刀工の手で打ち直しが行われた。


 以降、守り刀の一振りを父村宗が持ち、小太刀となった一振りを武運長久の護りとして細川高國へ献上され、大物の決戦に臨む前夜にも二人がこの二振りを所持していたのを見た者がいる。


(……何故、今なのか)


 二十余年の後、二人の最期を共にしたと思しき二振りが一堂に会する。

 守り刀の方は不思議ではない。隣国佐用庄の長・佐用則答は赤松総領家に属し、彼の軍勢が父を追い詰めたのは事実。則答が父の亡骸から剥ぎ取ったのであれば話の整合性も取れる。

 

 だが、この小太刀。小太刀は高國殿の首級と共に、三好の手の者が回収したのではないか。

 

 畿内において、細川家内部の政治闘争は、臣下の三好長慶の謀反により細川家主導の政治体制自体が瓦解。三好氏主導の政治体制が畿内一帯に及びつつある。かつての主君・細川晴元は将軍足利義輝と結びつつ、北の丹波にて反抗の機を窺っていると聞くが、時勢は細川家の凋落を止められないだろうという意見が大勢を占める。


 下剋上。宗景ら浦上家もまた、旧主君赤松家から袂を別つことで戦国大名として産声を上げた身ではあるが、かと言って三好氏との親交が深いものではない。


 赤松家当主・赤松晴政はそんな将軍家と細川家を盛り立てようと影に日向に動き、いつまでも過去の栄光に縋りついて生きてる。


「忘れたはずの過去が、今となって追いついてきたか」


 誰に聞かれるでもない。宗景の独白は六畳ほどの板間の私室に浮かんで消えた。




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