01・摂州大物崩れ1-2
そんな陣地のひとつから、男が一人、帰路につこうとしていた。
尼崎の染め物屋の手代。
この日、この三十路半ばの男は、備前国人衆の軍旗を依頼され神呪寺にはその納品に訪れていた。しかし、帰途に顔馴染みの足軽からの誘いを断りきれず、つい呑み過ぎてしまった。しばらくは酔い覚ましに陣地で厄介になっていたが、早く帰らねば明日の仕込みにも支障が出てしまう。
気が急いた手代は、つい、こっそりと防柵を乗り越えようとしていた。
「おい誰だ」
途端、手代は胸元を捕まれ、地面に組伏せられた。
手代に馬乗りになったのは、齢二十半ば、精悍な武将だった。
屈強な体格。全身を鎧で身を包んだ侍の腕をとても一商人の力では跳ね除けられようはずもない。無駄な抵抗とすんなり諦めた手代に、若い武士は近くの見張りを呼びつけ、たちまち騒ぎを聞きつけた十名余りの番兵が取り囲んだ。
「何者か、改めろ」
武士は配下の者に命じ、手代の荷物を調べ始める。
「否、御武家様。少々お待ちを」
「何だ」
「私の身分は、私の袖に入っております」
確かに、配下の一人が衣服の確かめると、なるほど袖の中からは一通の書状が見つかった。
「……それは本日お届けに上がりました品の目録で御座います。お疑いでしたらば、担当の者にお聞き下さい。必ずや私の身元を保証してくれるでしょう」
地面に伏しながらも漫然した手代の態度に面食らいながら、武士は番兵に書状の真偽を託した。
「おい。決して、逃げようとは思うな」
「なんのなんの。御武家様の心配は分かります。確認が取れるまでは、どうぞお好きな様に」
「良い覚悟だ」
そこで初めて武将は力をゆるめ、手代をあぐらに座らせる。しっかりとした眼差しには、商人を値踏みする視線も多分に含まれていた。
「商人、名は何と言う」
「尼崎の、ハシと申します」
「ほう、ケッタイな名だ」
呆れるように武士が呟くと、ハシはにやりと口角を上げた。なお、このハシという名前は古い伝承の中にのみ残る通称で、本来の名は平成の世には残されていない。当時の苗字もあまり分かっていない。
「手前の生まれは若狭、女房一人に子が一人。摂州は尼崎の染物屋の手代で御座いまして、勤めを始めてまだ三年。手先指先、藍染めよりも青くとも、白袴よりは使えましょう」
ハシの言葉は澱むことなく、自分の証明に使われた。
生い立ちに始まり、行商をしていた少年期に続き、苦悩と挫折の青年期を過ぎ、最後は今の生活の愚痴で締められた。
「なんとも、よく回る舌だな」
「商人とは生来舌先三寸の世界で生きる生き物。販促に説得、値切りに苦情。武家に公家、それに女から子供に至るまで、全てを受け持つこの舌こそが刀、手前どもの武器。御武家様方が、斬れない刀をお持ちでないことと同じで御座います」
本当は、言葉の端々に嫌味さを感じさせず、軽快に回り続ける言葉運びこそがこの商人最大の武器なのだが、それを言葉にしないところにハシなりの戦略があった。
「……何の騒ぎだ」
人垣の中から、もう一人戦装束の男が現れ、同時に、ハシを取り囲んでいた全員が平伏した。
「何の騒ぎかと、聞いている」
戦装束の男は、冷たく表情の読めない顔をハシに向けると、ギラリと切れ長の瞳を光らせた。
「高國様。平伏出来ぬ無礼、失礼つかまつる」
「かまわぬ。続けよ」
「先刻この者が怪しき挙動を取りました故、我らは早急に捕らえ、尋問しておりました」
「罪人、面を上げよ」
「…………」
高國と呼ばれた人物は、少し思案する素振りを見せたが、やがて記憶の中に思い至る事項を見つけたのか、無表情な蛇のような視線をハシに向けた。
「なんだ、ただの染め物屋の手代ではないか。おい、離してやれ」
「はっ」
ハシの背筋に、つうっと冷たいものが走った。
戦場とは、人の出入りの激しい場所である。一日に幾百人もの人間が入り乱れる中で、個人の素性を平然と記憶しているなど尋常ではない。まして高國とハシが直接会話を交わした機会もなく、同じ郷の生まれだという経緯もない。
言い様の無い不気味さだけが、戒めを解かれたハシの中に残った。
「高國様、何故このような場所に。天王寺の陣は良いのですか」
「阿倍野の弓合戦など、もう飽いたわ」
「……」
「それより貴殿の弟君は何処にいる。着陣の礼を言いに来たのだ。早う案内せい」
「分かりました。我が当主は本陣に。家臣達との軍議の最中かと」
「軍議となれば、我らとも共同で事を決めねばならぬだろう」
「御意」
武士は配下の中から屈強な者を何人か選び出すと、高國の警護と本陣までの案内を命じた。