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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第六章・播州鬼騒動四【天文二十二年(1553年)~】
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07・播州鬼騒動四2-1


《 2 》



「しばし、ここで待たれよ」

 

 尾行を恐れてか、男達は途中幾度か方向転換を繰り返したものの、政範を連れては一度たりとも休憩を入れることなく歩き続けた。


 今では鬱蒼とした林道の様相も、開けた山道と変わる。

 照鏡山八塔寺址。

 かつてこの場所は西の高野山と称され、険しい山中にも関わらず多くの天台信徒らによって賑やかな宗教都市が築かれていた。最盛期には、十一面観音を祀る本殿を始め十三重塔の伽藍に七十二もの僧坊、色彩豊かな建築物が立ち並んでいたのだという。

 

 永正十四年(1517年)の赤松浦上間の戦火に遭い、往時を偲べるものは寺院に入る山門の焼け残り程度しか残されていない。そして、その山門すらも自然の中に埋もれつつある。現在、政範が腰掛ける石も、元は由緒ある草庵の庭石のひとつだったかも知れない。今となってはほとんど夏草の海の中に埋没し、過去の栄華は静かに失われていた。


 本日は真夏日和。太陽が少し傾いた位では、容易に気温は下がらない。


 遠く乾いた地面にゆらりと陽炎が立つ。

 

 程無く男の消えた廃屋から、痩せぎすでやけに目付きの鋭い侍が現れた。頬や首筋の肉付きは無いのだが、肩衣の下が妙に膨れ上がり、外見だけで明らかに中に何かを着込んでいるのが分かった。


「七条殿の、……政範様と申されましたか。御足労頂き、真に感謝いたします」

「…………」


 お互いに名乗りもしないのに、相手は政範の情報を知り得ていた。

 思わず政範は刀の鍔に指をかけるが、それは周囲の男達に阻まれる。眼前の正体不明の侍は身構えた様子もなく、ただ政範に一瞥をくれると数度何かに頷いた。


「これは御無礼を。遅くなり申し訳ない。手前は浦上家家臣、宇喜多忠家と申す」

「…………」

「ああいや、浦上家の家臣よりも、貴殿ら七条殿にとっては宇喜多能家の孫と言い換えた方が御理解し易いかも知れませぬ」


 復讐。この二文字が政範の脳内を過る。夏の空気が風も無いのにわずかに冷えた。


 先の大物崩れの直後、西播磨で撤退する浦上家への追撃指揮を執っていたのは他でもなく七条家。政範自身も、父から宇喜多一党の惨めな末路を伝え聞いていた。


 尼崎での戦を辛くも逃げ延びた浦上家臣団の多くが本国備前国への帰還途上で討ち取られ、播磨の土に還っていった。しかし、その中でも宇喜多一党はかなり早期に部隊を戦場から離脱させ、政範の父政元らの包囲網の突破に成功した数少ない部隊だった。


 そこまでならば、さすが名将宇喜多能家ここに在りと、退き口の見事さを褒め称えられただろう。

 だが、戦後の人材不足を埋めるべく、能家が戦場から政治の場でも孤軍奮闘したことが周囲から要らぬ憶測を生む。

 

 何故に宇喜多勢の損害が少なかったのか、いや、宇喜多殿は自分達の権力を強める為に主君をあえて見殺しにしたのではないか。


 暗い嫉妬と欺瞞を一身に背負い、それでも宇喜多の者達は八面六臂の活躍を見せ、やがては護るべき主君にすらも見限られた。複数の反能家派家臣らの夜襲を黙殺され、一度は総てを無くした経歴を持つ。彼らが七条家に持つ感情は、未だ恨み骨髄に達してもまだ足りないだろう。


「おや。七条殿は、何か勘違いをなされているらしい」



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