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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第五章・播州鬼騒動三【天文二十二年(1553年)~】
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06・播州鬼騒動三3-1(美作国境、至岳の事)


《 3 》



 同年六月十八日(1553年7月28日)。

 備前美作国境。

 

 六月も半ばが過ぎ、梅雨が開けてからりとした瀬戸内の夏空が広がる。

 突然の暑さが土地を包み込めば、今年も我が時来たりと蝉達が声高に鳴き始める。


 この時代、夏の涼に氷室の氷を用いるのは貴族や大名達しかいない。

 一般庶民に夏場の氷水が普及するのは、土蔵式の氷室が考案される江戸時代中期以降。故に、まだ年寄りの冷や水という言葉も誕生していない。


 農民達はうだる夏の暑さを避け、時折木陰に避難しては、遠く立ち昇る入道雲を見上げて激しい夕立の訪れを待ち望む。


「おおい、お坊様。精を出すのは良いが、眺めていても作物は育たんよ」

「…………」


 畑仕事に一息入れる農民の視線の先、大柄な雲水が育ち盛りの夏野菜の葉を見つめる。

 雲水は額に汗を浮かべながら農夫に会釈で応じると、おもむろに懐から竹製の水筒を取り出して、筒内の液体を口に含み、勢いよく茄子に向けて吹き付けた。


 農夫は、ぎょっと目を見開いた。


「何だ。お坊様。水が腐っとったんか」

「いえ、少し菜が葉腐れを見つけたので少し薬を」

「不思議なことをいうもんだ。茄子も風邪か何かを引くのかい」


 同じ農作業に当たる者として、新しい技術に興味があるか、雲水の持つ水筒をしげしげと眺める。そして雲水に促されるまま、筒口を開けて匂いを嗅いで非常に嫌そうな顔になった。


「何だい。これは」

「それは木々を焼いて煙を集め、何年か床下で保存した後、ただ水で薄めたもので割りと簡単に作れます」


 雲水の名は至岳(しがく)。元は越前国永平寺の修行僧で、厳しい戒律の中に身を置いていた時期もある。今より二十余年前、越前守護朝倉氏と一向一揆衆の対立をきっかけに、広く世を知らねばと思い至り下山を決意。以降、諸国を巡り歩いていた経歴を持つ。


 至岳が諸国行脚で得た知識は仏法関連だけでない。こうした他国で開発された農法なども多く含まれている。


 この液体、いわいる木酢液の類だが、これはまだ西日本では広まっていない。

 農夫も、いかにも半信半疑といった様子で淡褐色の薬液に再度鼻を近付けたり、己の舌に垂らしてみたりと訝しそうに至岳を見上げていた。


「あんたは聖さんかい」

「いえ、拙僧は至岳と申し、今は備前国洞松寺で世話になっている身分です。残念ながら高野聖やヤドウカイの類ではありません」

「ああ、それは遠い処からご苦労様ですな」


 至岳が備前国洞松寺の名を出すと、とたんに農夫は親しみのある笑顔を浮かべた。

 どうやら誤解は解けたらしい。

 高野聖とは、雲水と同じく全国を行脚する僧を指す言葉だが、かなり意味合いが異なる。雲水は自らの修行として旅をする禅僧の総称。一方で高野聖は布教の傍らで行商を生業とし、総本山高野山への寄進を求めて全国を巡るという違いがある。

 

 そして、ヤドウカイは漢字で書けば夜道怪。関東地方に伝わる妖怪で隠れ座頭の一種。全身を白ずくめの衣装を纏い、日暮れの闇に乗じて人里に降りて来ては若い娘や子供をさらいに来ると信じられていた。

 

 高野聖の中には、高野山の権威を傘に傲岸不遜に世を渡る俗悪な者もいて、横柄な態度で宿を借りようと迫るために不心得者を妖怪のヤドウカイと「宿を借り」をかけた符丁として知られていた。古い日本の民謡には、高野聖には寄進はしても嫁を見せるな、村娘に手を出されて恨むに恨めぬなどと、彼らの悪行を唄うものが存外残っている。


 農夫の警戒も、尤もだった。


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