06・播州鬼騒動三2-1(鞍掛山七条正満の事)
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同年六月三日(1553年7月13日)、天候は晴れ。
赤松家の家系は、日本史において特殊な部類に入る。
西播地方の一代官から始まり、足利尊氏との数奇な出会いを経て、幕府の四重役の一角に任命された。やがて幕府の横暴に耐え兼ね、反旗を翻して一度滅び、一世紀の後に再起を果たす。
僅か二百年余りの間に、栄華と滅亡、それに再興を遂げた珍奇な家柄である。
故に、その系譜も複雑怪奇。初代赤松円心を祖に派生した幾つもの家々が連なり、一族、婚姻関係、縁を記すならば、忽ち数冊の書物が出来上がる。複雑に入り組んだ家同士の繋がりの一部始終、事細かに覚えることが可能な人間は存在するのだろうか。
置塩館から夢前川に沿って半里、播磨鞍掛山の新たな出城には、七条政元の長男・七条正満が城主として任じられていた。
名目上は、因幡の仇敵・山名氏からの侵攻に備える防衛の要。
だが、その任務とは裏腹に、彼の扱いは実質人質に近い。
正満に対する幽閉や監禁こそ無いものの、彼に面会する者や触れる情報に制限がかかり、領国内を行き来する際にも必ず当主晴政に伺いを立てる必要があった。
七条家は御一門衆。彼の父政元は晴政の実兄でもある。
だが、例え身内であっても、人質という担保が無ければ信用されない程、今の赤松家内部の政権争いは深刻なものとなっており、俄に備前独立派に歩み寄る者や、あわよくば自ら独立を果たして播磨国内の自勢力拡大を画策しようとする動きが顕著に見受けられた。
その影響なのか、この二ヶ月で置塩館ではなく、鞍掛山城へ挨拶をしようとする者が急増し、正満らは対応に追われている。
本来、七条家が赤松の宗家筋。赤松再興の祖・赤松義村も七条の血族。故に、七条の長男こそが赤松家当主の座が相応しい。以前から、甘言を弄して七条家に取り入ろうとする派閥がそれなりに存在していたのは正満も何度か身に覚えがあった。
現当主・赤松晴政への不信感が彼らを助長させている。正満を取り込むことで、七条家という後ろ盾を得て、発言権を強めようと画策している。
七条家を独立させようとする勢力は、この六月に入ってからも増える一方で、昨年の同じ時期にはせいぜい時節の挨拶程度に数人が訪れるくらいだったにも関わらず、今年は両手はおろか両足の指を含めても足りない人数が正満のご機嫌伺いへと訪れていた。
武家に商家、土豪、山伏、辻説法、浪人、来訪者の姿かたちは変われど、雇い主は同じ播磨国人衆の誰かである。無碍に断ることも出来ず、とうの昔に、正満は一人一人の顔を覚えることを諦めていた。




