01・摂州大物崩れ1-1
【参照事項】
年号…亨禄四年(1531年)。
場所…摂津国大物。(兵庫県尼崎市)。
《 1 》
亨禄四年六月二日、宵の口。
摂津国西宮(現・兵庫県西宮市)、甲山神呪寺の境内では、燃え盛る篝火の前を無数の人影が行き来ししばし明滅する。皆、顔に熱気を帯びていた。
今、この神呪寺の陣地を中心に時代は大きく動こうとしている。
今朝には色褪せていた陣幕も、夕暮れを待たずして次々と新品が運び込まれ、陣内の武士も雑兵も怏々と猛り、山全体が歓喜の声に震えるのが聞こえる。つい二、三日前まで蔓延していた厭戦気分も何処へやら、播磨國(兵庫県南西部)より、三ヵ月ぶりの援軍が到着したことで久方ぶりに活気を取り戻していた。
援軍は、播磨国守護赤松晴政(当時は政村)を筆頭に播州の精兵が凡そ三千騎。
青地に三つ巴。彩り豊かな本陣の中でも、ひときわ鮮やかな軍旗をはためかせ、無骨に光る黒鋼の鎧武者達が焔火に照らされる。彼らは、先に境内に陣取っていた兵士達から手荒い歓迎を受けていた。播磨の友人を待ち望んでいたのは、播磨の隣国、備前(岡山県東部)の國人衆達だった。
後世、両細川の乱と称される天下分け目の一大決戦。
かつての天下人、細川高國が再び天下に返り咲くか。はたまた、堺公方府、東軍の細川晴元が畿内で巻き返しを図るのか、要職管領の座を巡る政争が始まって二十余年。それ以前の幕府内のつばぜり合いも合わせれば三十年近くの年月が費やされている。
この神呪寺は西軍、高國派に属し、境内を本陣として提供をしている。赤松家臣団の来訪は、膠着状態にあった畿内戦線に勇気と息吹をもたらした。
当主・晴政の号令のもと、着々と新たな配属準備が始められる。宵闇の薄明かりの中、赤松重臣の面々が山門、仁王門をくぐりほの暗い本堂前へと通される。神呪寺の本陣を中心に、西宮一帯に集められた高國派・備前連合の軍勢は合計二万。本堂内には、備前国人衆を始め、京都北部の豪族、播磨東部の地侍達など西軍を代表する面子が揃い踏み、昨年春からの戦況の変移が口上で報告された。
播州の晴元派に機先を制し、摂津国(兵庫南東部および大阪府北中部)まで侵攻したのが昨年の八月。浦上・高國連合の軍勢は破竹の勢いで冨松城(兵庫県尼崎市)を含めた摂津北部の出城群を攻め、一時は天王寺の南まで東軍を追い落とし、一気に和泉国との国境へと迫る局面もあった。
だが、快進撃もここまで。やがて東軍には四国からの救援が追いつき、敵地内での戦線は硬直。またたく間に木津川河口には小砦群が構築され、東軍による堅固な防衛線を突破の糸口が掴めぬまま、時間と資源だけが消費され続けた。
側付きの近習が叫ぶ度、地図の上で木製の駒が更なる戦況の移り変わりを示していく。
「現在は、この天王寺から阿倍野にかけてが最前線となり、我らには敵戦線に突破する兵力、その絶対数が足りていませんでした」
戦況が戦況だけに、今回到着した赤松軍への期待は大きかった。
山裾に置かれた本陣は元より、麓の末端の兵士に至るまでが湧きかえり、各陣地では勝ち栗が出され戦勝祈願の酒も振舞われる。陣を出入りする女の姿も見え、士気は最高潮に達した。
これで打開の目処が立った。上手くすれば畿内全土数十年に渡った内乱が終わる。幕府が安定すれば京の都も静寂を取り戻すかも知れない。古参の将兵の間にすらそんな楽観的な空気が広がり、山全体が身分の上下に関係なく浮かれ騒ぐ歓迎の夜が始まる。