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幕間3


――再び現代に戻る。


――…キィン。


 午前一時が過ぎた頃、一度話は締められ、部屋の換気が行われた。

 

 新鮮な空気が入り、冷たい夜霧が鼻の奥にツンと突き刺さる。眠気覚ましの刺激としては申し分ない。遠くの道路の先に、一瞬だけ灯火の様なものが見えたけれど、すぐに闇夜に溶けてしまい、目では追えなくなった。


「何か見えたかい」


 何処か楽しそうな青年が、私に問い掛ける。


「……いえ、少しだけ。灯りが見えたような」


「狐火かもな。江戸時代には、この辺りの狐が相撲をとっていたらしい」

「御冗談を」


 ものの十分で、室内でも囲炉裏火に息が照らされるほど気温は下がっていた。

 普段ならば繁華街の暗灰色の夜空も、この場所では濃墨色で、遠くの電灯だけが、相変わらず静かに夜霧に沈んだ山道を照らしている。


「でも、妖怪なんかが出てきても不思議じゃないかも知れませんね」

「おやおや」


 一説には、鬼の語源は、暗がりにぼんやりと存在するモノ、正体の不確かな漠然としたモノを表現する隠に由来するという。

 絶えず霧は流れ続け、それに伴って闇も形を変えていく。

 もしも今、この中を誰かが提灯でも持ちながら歩いたならば、それだけで立派な怪談が出来上がる。


「君は、井上円了という学者を知ってるか?」

「ええと、名前だけですけど。確か明治の妖怪研究家だったと思います」

「そうだ。現代妖怪学の祖にして、日本で初めて科学的な見地から妖怪を接した人物だ」


 井上円了。

 

 現在の東洋大学の前身である哲学館を立ち上げた人物として知られる。

 生前、彼はお化け博士の愛称で知られ、日本全国三百種以上の妖怪を種族や生態、その伝承などを分類した。そう、各地の街談巷説を興味本位で収集したのではない。


 博士は妖怪を学問として科学的見地から解剖して白日のもとに晒し、妄言綺語溢れる前世代の人々の意識を、より近代的なものに変えていこうとする試みだったらしい。

 

 日本史上、こっくりさんの正体を暴いたのも彼だったりする。


 そんな井上円了の考えの中に、実怪と虚怪というものが存在する。

 平たく言えば、本物の妖怪と偽物の妖怪ということ。


「前者の実怪は、科学では説明不能な真怪、自然現象が原因となる仮怪に分かれる」


 例えるなら、真怪は超常現象的な何か、仮怪はブロッケンの亡霊や山彦などだろう。

 仮怪は、今では簡単な物理法則で説明出来るものが多い。


「それなら、霧の中の狐火は仮怪ですか?」

「いや、どうだろうな。円了博士の分類は、怪異を原因によって分類分けしたものだから、セントエルモ然り、自然界の放電現象などを怪異として扱うなら仮怪。逆に、車のライト等の人為的な原因を誤認したものならば、後者の虚怪の範疇に含まれるだろう」


 さらに虚怪は、誤怪と偽怪に二区分。

 

 誤怪は文字通り、観測する人間による誤解や誤認により生じた怪異になる。

 偽怪は、人により作られた怪異に相当する。


 孕のジャンはさじ加減が難しい。大江山の酒天童子、一条戻り橋の茨木童子、信州戸隠の紅葉などは、実在の人物達がモデルとなった妖怪や、営利目的や政治目的により生まれた妖怪が含まれる。


「ん、戸隠山の紅葉は、確か明治時代の創作だろ?」

「まだまだ勉強不足だな。紅葉は室町時代だ」


 鬼女紅葉。

 彼女は、古くは十五世紀の猿楽の創始者、観世小次郎信光の作、紅葉狩の能に登場する鬼女として名高い。また青年の言う通り、伴笹丸と菊世が登場し、小説として広く流布したのは、明治十九年刊行、北向山霊験記・戸隠山鬼女紅葉退治之伝とされる。

 

 確かにこの霊験記自体は、信州上田常楽寺の住職が創作した小説かも知れない。

 だが、その構成の根本には、地元の伝承があり、現地には鬼を祀る五輪塔や祠が残され、木奈佐の地名も鬼無里へと変化するほどに、紅葉の伝説は地元で息づいている。

 

 また戸隠山の鬼伝説は、少なくとも十三世紀の書物、諸寺略記にも残されているし、紅葉の名前も江戸後期の文献にも見受けられる。

 例え紅葉が実在ではなくとも、それ以外の何者かの痕跡は山とある。

 これは果たして妖怪かどうか。


「いやいや、少し長くなったな。人間年をくうと、無駄話が多くなっていけない」


 老人は最後にそう締めくくり、また刀を構え直した。


「……さて、そろそろ閉めてくれ。年寄りは寒さにも弱いんだ」

「あ、はい。わかりました」


「では再開しますか」


老人が二度目の刀の鍔をチィンと鳴らせ、真夜中の怪談語は再開される。




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