05・播州鬼騒動二4-1(高田表の戦い)
《 4 》
尼子遠征の知らせは、独立強行派の心胆を寒からしめた。
勿論、浦上家中では、浦上兄弟の対立以前から備前国境の防衛網の構築が行われていた。例えば、美作方面の国境、備前茶臼山では、笹部勘解由の指揮のもとで新たな城郭が築かれ、そこに付随するかたちで小砦群の建設も進められていた。
外交面では、美作国三星城の後藤氏をはじめとする諸勢力に援軍を取り付けてある。
後藤一族は南北朝時代から続く名家。東作州の国人衆達に対して強い影響力を持つ。彼らの協力がある間は、美作国内外に浦上氏の存在と健在ぶりを知らしめるのにも役立ち、出雲からの進軍路を封鎖する意味合いでも大きな反抗拠点として期待が寄せられていた。
だが、現実は備前浦上氏の想定を容易に越えてくる。
如何せん、尼子の侵略速度は早過ぎた。
宗景らの試算では、農繁期の過ぎた本年夏季の侵攻を見込み、各拠点の軍備と外交の調整が行われてきた。故に、独立派の主力となる備前備中の国人衆との連携協議はまだ煮詰まっていない。
それでも相手が軍を動かした以上、座して待つわけにはいかない。
宗景は迎撃に向かうまでの村々で募兵に熱弁を奮い、備前国東北部の明石氏、日笠氏、大田原氏に早馬を飛ばし、東美作からも後藤勢からの援軍を頼み込む。数日のうちに宗景の軍勢はなんとか総数一万五千まで数を揃えてみせた。
かろうじて一戦交えるだけの戦力となるが、それでも急ごしらえとしては充分過ぎる。
両軍が決戦の地に選んだのは、作州東部の勝山の地。備前独立派が尼子軍主力と会した時、はたして宗景らの眼前には、西美作の国衆との合流を終えた尼子軍三万が今か今かと陣を構えている光景が広がっていた。
彼我の戦力差は倍。物見からの報告通りを聞き終え、実際に相対してみると尼子兵の重圧たるや錚々(そうそう)たるもので、宗景の背筋には冷たいものが走った。このまま策も無く会戦に持ち込まれれば万に一つの勝ち目もない。
「宗景様。宗景様にお目通りしたいという若者が……」
この窮地、奇策を献上したのは眼光鋭い齢二十五の若武者。名を宇喜多直家という、かつて西国で名を馳せた智将、宇喜多能家の忘れ形見だった。
彼の祖父能家は、その才から謀反の嫌疑をかけられ、浦上政宗の黙認の上、同じ浦上家臣島村盛貫の関係者によって殺害されていた。この暗殺劇に便乗して叔父の浮田大和守は旧宇喜多領の乗っ取りを宣言。
幼い直家は父興家と共に帰る場所を失ったとされている。
父の死後、しばらく備前西大寺に預けられた直家だが、遡ること十年。十年前の天文十二年、直家の母の執り成しで浦上氏への仕官が叶ったとされている。仕官後間もなく、備中国刑部郷攻め入った際には、敵将二階堂氏行の籠る経山城攻めに参戦し、以降は宗景のもとを離れる事なく備前独立派に所属していた。
この経山城の戦いが宇喜多直家という人物の初陣だという語り手もいたが、正直よく分からない。
ただ、祖父譲りの武勇と父譲りの勤勉さを遺憾なく発揮し、浦上軍が撤退する際には殿軍を見事に務めあげるなどから主君の信頼を勝ち取ったらしく、翌十三年には、宗景の勧めで領内最西端の乙子の地にある小さな城を宛がわれていた。
まだ吉備の穴海と呼ばれ、児島一帯に広大な岡山平野が存在しなかった時代、乙子は僅か三百貫の知行しかなく、直家には家臣団全員を養うだけの財力はなかった。
乙子時代の宇喜多家臣団の暮らしはかつての栄華から程遠く、直家自身も月に五度、絶食と称して丸一日何も食べぬ日を定め、時には近隣の敵領内で野党紛いの働きをすることで食料を得たなど、非常に困窮していた生活を送っていたことが後世の記録には残されている。
その他、備前まで支配の腕を伸ばそうとする安芸毛利氏に対しても、備中・備前国境の沼城付近で毛利兵との小競り合いが生じた際に、直家は寡兵ながら見事な戦働きを見せ、毛利家からも一定の評価を得たことで、浦上氏と毛利氏との同盟締結に一役買うことにも成功していた。
臥薪嘗胆、そんな人物だった。




