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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第四章・播州鬼騒動二【天文二十二年(1553年)~】
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05・播州鬼騒動二3-1


《 3 》



 同年三月。


 (うるう)一月、二月に渡り、西日本全域を襲った寒波は、各地に深い爪痕を残しながらもやっと落ち着きを見せてきた。播磨国の山間部において、特に積雪による家屋の倒壊や火の不始末が原因で起きた小火(ぼや)が相次ぎ、比較的雪が少なかった地域でも冬籠りで食い詰めた者たちが野盗と化し、近隣の村々を襲う事件が頻発していた。

 

 赤松家の面々はといえば、悪天候と兵糧不足の二重苦の中、連日問題解決に向けて領内をかけずり回ってはいたが、その成果はお世辞にも芳しいものではない。


 だが、曲がりなりにも国内の統治機能が生きていただけ、播磨国はまだ恵まれていた。


 隣国の備前は、更に悲惨である。

 冷夏と寒波による被害に加えて、政治的混乱も領民達に追い討ちをかけた。


 そんな状況下でも物資に余裕のある尼子の軍勢は備前侵攻の手を緩めることなく、隙あらば浦上領に食指を伸ばそうとし続ける。特に、彼らが出雲から越境してきた大攻勢以降の二年間、旧領主の赤松・浦上両家が後手にまわったこともあって、備前国内では尼子の調略を受けた国人衆らの離反が止まらなかった。


 なんとかそんな戦況を覆そうと、なけなしの戦力をまとめ上げて美作国奪還に兵を送ってはみたが、尼子軍精鋭の練度は高く、数度行われた攻勢はいずれも失敗に終わり、結果だけ見れば備前・美作の国境越えすら叶わず、旧領主側の求心力低下に拍車をかけていた。


 幾ら人が死のうと、備前国内の領土問題は解決する気配がない。


 昨年の美作失陥の報によって、浦上家臣団は圧倒的な国力の差を、浦上家当主は将としての力の差を嫌というほど味わわされた。


 度重なる尼子軍の脅威は、それまで反尼子の一枚岩だった備前国を大きく二つに分断。一つを尼子臣従派、もう一つを独立強行派とでも呼べば良いだろうか。この二派の争いは、それぞれの派閥に属する国人衆を巻き込んで備前一国の存亡を賭けた熾烈なものとなっていた。

 

 尼子臣従派の長は、浦上氏現当主、兄の浦上政宗(うらがみまさむね)

 独立強行派の長は、政宗の弟の浦上宗景うらがみむねかげ


 戦力を比べれば、尼子氏の支援を受けた兄の政宗側がやや優勢。少し前までは政宗が赤松家の間でも筆頭家老として幅を利かせていた縁もあり、赤松側の親尼子派閥とも深い繋がりを持つ。


 それに対して、弟の宗景も安芸毛利氏と同盟を結び、東西から挟撃の形を模索していた。


 この頃の毛利氏は、尼子家と断交したばかりの時期に当たる。彼らは国力こそ心許無いものの、周防長門の大内氏と陶氏から安芸・備後二国の実行支配のお墨付きを得ている。故に、毛利氏の背後には常に陶氏の権威がチラリと見え隠れし、軍事面においても陶・毛利連合軍は大内氏の援護のもと、数に勝る尼子軍を何度も撃退した実績があった。


 宗景ら独立派としては、毛利氏の助力を得ようとするのも道理といえた。


 そのほか、毛利氏との同盟には大きな利点を有し、備前の浦上領と平野部で繋がっている地理的優位は尼子臣従派には無い絶対的な利点となる。


 なだらかとはいえ、中国山地はそれなりの標高の山が連なる。遠く出雲国から徒歩で進軍する尼子軍は必然的に行軍に時間がかかる。彼らが美作国を簒奪したのも、山陰からの山越えを見据えた先、山陽までの安全な橋頭堡を確保せねばという強い意志が働いている。


 備前独立派にはその心配がない。


 毛利領と浦上領ならば、瀬戸内の海路を利用することで、迅速な援軍が可能となり陸路とは比較にならないほどに大量の物資輸送が可能となる。


 毛利家前当主毛利元就(もうりもとなり)が相当の戦上手という人物評も手伝い、数名ではあったが、親尼子派の中からも独立派に内応しようかと心を揺らがせる者もあらわれている。


 備前国の覇権を巡る浦上兄弟の政争は、この一年半、水面下でずっと続いていた。


 客観的に見れば、毛利との繋がりを深めたことで、これまでの兄政宗の一方的な優勢な状態から弟が盛り返し拮抗状態まで押し戻された。だが、そもそも国内は慢性的な物資不足。互いの攻め手を欠く展開を招き、両者の睨み合いをしたまま大きく戦線は動かず、最大の被害を被ったのは両派閥の間で揺れ動く領国の民だった。


 政治が停滞する状況下、領内に飢えと先行きへの不安感が蔓延する最悪の時制。


 国内の状況をなんとかしようと、先に動いたのは尼子臣従派だった。


 尼子臣従派はこの不毛な兄弟争いに終止符を打たんと、出雲国へ本格的な武力介入を要請。尼子氏当主尼子晴久(あまごはるひさ)の了承のもと、出雲尼子軍総勢二万八千の南下を以て、天文二十二年三月は始まりを告げた。

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