05・播州鬼騒動二1-1
【参照事項】
西暦…天文二十二年(1553年)。
場所…播磨国置塩(兵庫県姫路市)。
《 1 》
天文二十二年、睦月中旬。
人は行き交い、時は流れる。
正月の空気が抜けきらぬ播州置塩の城下を、早馬が高らかに音を立てて駆け抜けた。
早馬の主は、政範の叔父高島正澄。彼は昨年の秋に佐用屋敷を訪れた後、隣の宍粟郡に入り宇野氏に関する内偵を進めていた。
現状、赤松家による分国支配はどう贔屓目に見ても芳しいものではない。
一昨年末から続く出雲尼子氏の拡大政策は止む気配がなく、ついに美作一国を平らげ、更に余剰戦力を以て備前国北部にまで強い影響力を伸ばすようになっていた。
さすがにこの時期になると、幕府の最高権力者、将軍足利義輝も尼子氏の存在を意識せざるを得ず、それまでの、赤松、山名、京極、山名を過去の遺物と見做し、尼子氏当主・尼子晴久を新たな備前、美作両国の主人をして任ずることを是としていた。
時代の波、と一蹴してしまえばそれまでとなる。
だが、将軍義輝のこの判断に激しい衝撃を受けつつも、赤松とて意地がある。当主赤松晴政は播備作各地に使者を飛ばし、草の根活動を行いながら密かに地侍たちからの支持を取り付け、反撃の準備を整えようとしていた。
高島正澄も晴政直々に命を帯びた密偵の一人となる。
そんな彼が急遽、宍粟郡内の伊和郷で行なっていた内偵を取り止める決断を下した。
この二日間、彼は飲まず食わず。特に宇野氏が関を構える鹿沢を突破してからは全速力で駆け通し、後方一切を振り返ることなく、林田、書写の集落を突っ切る間には三頭の馬を乗り潰し、赤松氏が本拠を構える置塩城の晴政屋敷まで死に物狂いで駆け上がった。
事態は急を要していた。
睦月の語源は、この月に親族一同が集まり睦びあうからだという。
もしも、この説が正しいのであれば、この年、宍粟長水城で開かれた年賀の宴は極めて異質なものとなる。新年の宴を前に、長水城主宇野政頼は家臣数名を城内の屋敷に呼び出すと、一方的な帰農命令を出すと、彼らを城から放り出して再度の登城を禁じた。
突然の解雇にも関わらず、呼び出された者らへの説明は何もない。呼び出された者達は弁明しようにも機会すら奪われ、ただただ戸惑いながらも帰路に就かざるを得なかった。
そこまでは理解できる。
主君の何かしらの勘気に触れ、配下が暇を出されることはこの時代珍しい話ではない。
だが、正月の宴が終わってから数日のうちに、呼び出された者達が相次いで変死を遂げたとなれば事情が変わる。正澄の聞き込みによれば、どの者も突然ふらっと姿を消したかと思えば、しばらくして宍粟の山中から変わり果てた姿で発見されたのだという。
遺骸は冬の寒さで腐敗自体は少ない。だが、その多くが野犬や狼に喰い荒らされ、損壊の度合いが激しく、調べてみても死因に繋がるものが見つかることはなかった。遺体の中には同じ宇野一門の人間が含まれ、彼らはゴミ同然で冬山に投げ捨てられていたことになる。
普通であれば、家中を騒がす大事件となる。
しかしながら、この惨劇に対して宇野政頼は下手人の捜索を渋ったらしい。
やっと調査が始めたかと思えば、僅かな期間、それも部下数名に命じただけで、それ以上の捜査を切り上げさせたとも言われている。その後、被害者の親戚縁者が更なる調査を求めたのにも関わらず、政頼は彼らの懇願を完全に切り捨て、彼らにそれ以上の口出しを許さないという強権ぶりを発揮した。
そして何より、犠牲者の中には宍粟郡内で正澄の内偵に協力してくれた者達が大半を占めていたことが決定的だった。
この報告を受けた時、正澄の背筋には冷たいものが走った。
被害者の共通点は、皆保守寄りで、赤松惣領家を主家と仰ぐ者達ばかり。そして、辛くも生き残った宍粟郡内の協力者から、今年の宇野の新年祝賀会には、見知らぬ男達が上座に呼ばれていたらしく、男達はこの粛清劇の顛末について政頼から報告を受けると、満足したように因幡街道を西に向かって去ったのだという。
ここまで証拠が出揃うと、宍粟郡全体の造反がほぼ確実。
敵中孤立。宇野の家臣団が、赤松一族の正澄に襲撃を仕掛けない理由がない。
正澄自身、生きて宇野領から抜け出せたのは、ほぼ運といえる。




