04・播州鬼騒動一1-1
【参照事項】
西暦…天文二十一年(1552年)。
場所…播磨国佐用郡(兵庫県佐用郡佐用町)。
《 1 》
天文二十一年十月晦日。
冬の始まり。
山の炭焼きも起き出さぬ早朝に、二人の行商人が霧深い峠道を越えていく。
かつて播磨国の西部は、佐用郡と呼ばれていた。
中国山地の東端に位置する佐用郡は、佐用村や平福村など小さな集落群から成り立ち、その大部分が山林に覆われ、村に入るには、こうした急勾配の坂を幾度も越える必要がある。白い息を吐いて坂越えに挑む彼らは佐用氏の屋敷を目指していた。
米を貨幣として用いた時代、一般的にはこうした山がちな土地の利用価値は低く見られ、せいぜいが建築材を手配するため、細々とした林業が営まれるのが通例だった。
人の往来の限られた、山間の小さな集落。
しかし、この佐用郡に限ってはその限りではない。
この頃、西国を行き来する旅人にとって中国の山々を越える街道筋は限られていた。播州、備州、作州の三ヶ国の中継地点に位置する佐用郡は、その特異な地理的条件から、交通の要衝として発展を遂げていた。自然、街道として発展し、それぞれ因幡街道、美作街道、出雲街道と呼ばれるようになった。
この土地を抑えた者は、山陰陽と中央へ結ぶ最短路を手中に収める。それだけに、佐用郡の重要性を熟知していた歴代の守護大名は、郡内各所に拠点を設け、防衛網を作り上げていた。
主幹は、郡北部の利神城、中央の福原城、南部の上月城。
三つの城を主軸に幾つもの支城や構(砦)が築かれ、街道の警備に当たる。その管轄の一つに、村への東の入口、佐用坂という坂があった。熟練の旅人達も途中で息を上げる凹凸に加え、道幅も狭く、人一人と牛一頭が横に並んでしまえば、道全体が塞がれて通れなくなる。
後世、佐用郡が陸の孤島と呼ばれたのもこの坂が原因で、岩盤の大規模な開削が行われるのは明治後期。現代のように複数台の自動車が通れる広さにまで坂が切り開かれたのは昭和年間に入ってからとなる。
ゆえに、当時の因幡街道の旅人達の間では、林崎から下徳久を通り、口長谷から横坂に至る釜須坂経由で佐用村に入るのが表街道、徳久村から急勾配な山道を通る佐用坂経由の山道は裏街道となっていた。
とは言え、佐用坂経由の道は畿内から美作を通って出雲に抜ける最短経路でもあったことから、時の播磨国守護も、この坂には深い思い入れがあったらしい。
当時、坂の頂上には、赤松家の番所が置かれ、街道を抜ける人間の監視が行なわれていた。
「申し訳ない。こちらへ」
「…………」
「気を悪くしないで下さい。最近この村の周辺も物騒になったので御協力を」
この日も、先の二人の行商人達が関所前で呼び止められた。
番兵達の口調は言葉面では丁寧だが、その言葉の奥には棘が含まれていた。
彼らの苛立ちの原因は、不自然な時刻に訪れた闖入者というよりは、交代間際に余計な手間がふえたことにあるらしい。番兵達は行商人から背荷物を受け取ると、あらかじめ定められた手順で品々を確認し、密書や禁制の品が無いかを確かめていた。
やがて、持ち物をあらかた見終わると、やれやれと一枚の木札を取り出した。
通行手形。
偽造ではなく、丁寧な行書体で書かれた本物である。
しかし、年長の行商人は手形を受け取らず、代わりに胸元から同じものを取り出した。
これには番兵も驚いたらしい。すぐに番所から責任者が飛び出し、行商人達に向かって頭を下げた。
「これは、とんだ御無礼を」
「いやいや、御役目ご苦労」
殊勝な上司の態度を見習って、番兵らも丁重に二人に荷物を手渡した。
行商人達は頷いた。
「まずは番所を借りたい。お目通りするのに、流石にこの格好では失礼になる」
「分かり申した。こちらへどうぞ」
番兵に促されるまま、二人は中へ通された。