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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿八章・出雲尼子氏崩壊【天文廿三年十一月十九日(1554年12月13日~】
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32・出雲尼子氏崩壊2-1

 ー2ー


 明石の海に、淡路の島が浮かぶ。


 古い言葉では、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)


 この日ノ本ができる遠い遠い昔、まだ神代の御代と呼ばれる頃、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が天沼矛(あめのぬぼこ)を用いて下界をかき回し、矛の先から滴った塩が固まりこの国で初めてできたのがあの島なのだとされている。


 その名の通り、淡路は阿波へ続く路を意味しているという。


 夏の間、あの島の南部では黄金色の(はも)を獲る漁が盛んに行われている。鱧に限らず、淡路は古くから京の海産物供給の重要地点として知られている。が、こと鱧という魚に関して、京は淡路に並々ならぬ熱意を持っていた。古くは平安期、朝廷には干した鱧が献上されたとされ、室町の中頃からは物流と輸送技術が発展したことを受け、皮膚呼吸ができて生命力を強い鱧ならば生きたままでも京都へと届くようになったとされる。


 とはいえ、天文年間末くらいであれば、生きた鱧はまだまだ高級魚。


 大衆の舌の上にあがるのは、当時摂津国生玉荘(いくたまのしょう)にあった雑喉場(魚市場)を、天正年間、太閤となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂に新たな城を築く際、少し離れた西靱(にしうつぼ)に移転させたぐらいからと言われている。


 聞いたところでは、いつぞやの祇園御霊会の折、京の町人らの間では「神事これ無くとも山鉾渡したし。万事金無くとも鱧は食いたし(神事はしなくていいが、山鉾巡行は行いたい。何事につけてもお金は無いが、美味い鱧は食べたい)」と歌われたという。


 さて、そんな京の夏の風物詩はともかく、七条政範にとってやはり海は特別である。


 普段海を見慣れていない政範にとって、広い海原を視るには実に新鮮なもの。ー視界が一気に開けてる中、厳かに島が佇む光景は心の何処かを静かに高揚させてくれた。


 同時刻、七条政範は大蔵海岸の東側、朝霧川の河口で舟を待っていた。


 令和の時代となっては見る影もないが、室町期の大蔵海岸は白砂青松の景勝地としても知られていた。それも須磨、舞子に勝るとも劣らない立派な黒松が立ち並んでいたという。この浜では今、近くの漁民らが陣夫となって駆り出され、四里ほど東に離れた岬の先、播摂五津のひとつ兵庫津で荷揚げされた物資をさらに自らの小さな漁舟に載せ替えさせて運び込みが行われていた。


(なんとも巧みに舟を操るものだ……)


 明石の海は、潮の流れが非常に速いと聞く。


 それでなくても海舟と川舟は勝手が明らかに異なる。にも関わらず、陣夫らはなにごとも無いかのようにするすると潮を読み、自由自在に舟を動かして、毎朝決まった時間に赤松向けの兵糧を集積地へと留め置いてくれる。


 中には、二十石はあろうかという淀舟に似た舟を繰る者も居て、一度困難な事は無いのかと尋ねたこともあったが、舟の主はなにも、と事も無げにいってみせた。


 ここではそういうものらしい。

【神事これ無くとも山鉾渡したし】

 天文三(1533)年、延暦寺側の訴えで祇園社の祭礼が中止に追い込まれた際に町衆が出した声明の一節。


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