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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿八章・出雲尼子氏崩壊【天文廿三年十一月十九日(1554年12月13日~】
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32・出雲尼子氏崩壊1-2


「戦とは、所詮(しょせん)算用よ」


 と、義祐は常々考える。


 人を動かすためには金が要るし、人に動かされるにも金が要る。義理人情などという不確定な物事を当てにする前に、純粋な利を追求することがこれからの世の中を生きる確かな術となる。一部ではあるが、地元国人衆らは鼻先に利をぶら下げねば動かない虎狼の群れと化している。


 人は人を裏切るが、財とその使い方さえ指し示せば、金は人を裏切らない。


 赤松惣領家を継ぐ身として、肌で感じるほどの功利の一種。


 功利など、義と対になるその言葉が誕生したのは、義祐が生まれるより千三百年も昔。ただの実利とも異なる思想を、物質的に恵まれた幼少期を義祐は感覚的に知っていた。


 播磨の戦乱が去る気配はないが、それでも国を富ませねばならない。


 幸いなことに、今ならば但馬山名家との緩やかな協力関係が築かれている。それに播但国境の鉱山群に関する詳細は、降伏した宇野氏からももたらされている。今後は赤松氏主導での開発も進もう。


 かつて室津で聞いた山師達の話では、播但国境の鉱脈は播磨国内を細く長く備前国境まで連なっているという。古の時代、円心公が播磨赤松村に法雲寺を建立する際、近くを流れる千種川から砂金が産出したという噂は義祐も聞いたことがあった。


 一説には、法雲時の大仏殿、その本尊には千種川由来の金や銅が、それも相当な量の鉱物資源が使用されたと言われている。


 播磨国は、未だ掘り起こされていない埋蔵金で埋め尽くされている。


 取らぬ狸のなんとやら。


 妄想を膨らます義祐の陣に、出雲に放たれていた密偵の一人が辿り着いた。


「戻りましたか」

「……首尾は」


 現実に引き戻された義祐の言葉は固い。


 情報は真。


 出雲尼子は、身内を斬って再生の道を選んだ。嘘偽りなく、尼子家当主尼子晴久は、叔父の国久以下複数の親類に手を下し、粛正は今も続いている。


 同じ情報は、ほぼ同じ時期に備前美作の親尼子派にも届けられたが、彼らにとってもこの新宮党粛清劇は晴天の霹靂だったらしく、浦上政宗以下播磨の親尼子派閥の動揺は計り知れず今後について意見が割れているという。


 尼子氏が当主晴久直々に事態の収拾のために動いたとしても、恐らく数ヵ月の間は政治的な混乱が見込まれる。


 ならば、国力の劣る赤松としては、いかに東播磨での戦を素早く片付け西に向かうか。自分たちが失地回復を望むのであれば時間との戦いとなる。国人衆らの動揺が落ち着けば赤松家の勝ちはない。


「置塩への馬を用意せよ。尼子の脅威に怯えてばかりの父上にも今回ばかりは立って貰わねばならぬ。最も早いものを選べ」


 指示を飛ばすと、義祐は陣幕に戻って急ぎ墨を擦らせた。


 彼はこの場所を離れることは叶わない。ゆえにありったけの想いを込めて書状をしたため、部下に持たせると全速力で置塩まで走らせるよう何度も頼んだ。


 朝焼けの明石浦を走り去る早馬を見送りながら、義祐は大きく伸びをする。


 太陽は既に水平線から上りきり、今日も今日とて明石浦は冷たい海風を送り込み始めていた。

【太山寺】

 神戸市西区伊川谷町前開にある天台宗の寺。明石との関係が深い寺で、八世紀頃、刑部定国という明石浦の漁師が網漁をしている際に薬師如来像を引き揚げ、その像が太山寺の本尊として祀られたという話がある。



【大蔵院】

 明石市にある臨済宗の寺。室町時代に中巌円月禅師が開山。嘉吉元年(1441)、嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐の弟祐尚が居城を三木に移したために、残された屋敷を寺院として利用したもの。祐尚夫妻の墓が存在する。



【法雲寺の砂金伝説】

 法雲寺は上郡町苔縄にある臨済宗の寺。建武四年(1337)、赤松円心が雪村友梅のために建立したと伝わる。創建時には大仏殿を有し、応永二十三(1436)年には十刹に列せられた記録が残る。

 

 砂金伝説は、一般に寺を金華山と号した理由が『雪村友梅が大陸での修行時代を想って名付けた』とされるが、伝説によれば、建立時に実際に千種川から赤子の握りこぶし大の砂金が見つかったために『金』にまつわる山号となったというもの。


 千種川ではないが、近くを流れる鞍居川の上流に確かに金出地(かなじ)という地名があり、かつては鉱山が存在していた。金出地には赤松家にもゆかりのある鞍居神社が鎮座している。



【鞍居神社】

 上郡町金出地に存在する神社。祭神は帯中津比古命、誉田別命、息長足姫命。康保四(967)年に施行された延喜式神名帳の中の赤穂郡三座のうちの一つとして「鞍居神社」の名があるが、同名の神社が同町野桑にも鎮座しているためはっきりしない。


 寛文十一(1671)年、神主の金治何某が記した奉納略御縁起によれば、桓武天皇の時代、皇子の病気に悩まされた天皇が豊前国宇佐宮に使者を使わして祈願したところ、皇子の病気は平癒し、この地の山から紫の瑞雲が立ち昇ったために喜んだ天皇が創建したと伝わる。


 室町時代播磨守護赤松氏の崇敬を受け繁栄したともされ、一部資料では「クライ」ではなく「クラヲキ」と呼ばれたともいう。その他、『永禄年間』に出雲の武将『尼子勝久』によって社殿が焼かれたともいわれている。


 埋蔵金伝説に事欠かない赤松家だが、上郡町に鎮座する二つの鞍居神社のうち、こちらの金出地地区の鞍居神社から苔縄一帯にかけては、没落した赤松家の莫大な埋蔵金の在り方を示した手毬唄が昭和期までは歌われてたことがわかっている。

 

 明治か大正ごろには実際に埋蔵金探索も行われたらしく、昭和六十(1985)年から平成二十七(2015)年にかけて金出地ではダム工事のために多くの人間が出入りしているが、その時にも埋蔵金は発見されていない。

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