32・出雲尼子氏崩壊1-1
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少し日時が前後し、天文廿三年十一月十九日(同12月13日)、未明。
明石表近く、朝霧川の東岸に設置された赤松義祐の陣を容赦なく苦しめていた冬の海風が勢いを弱まり、朝が近いことを知らせていた。
このとき、赤松義祐率いる播州諸侯は、三好家重臣の篠原親子と共に枝吉城攻略に向けて歩調を合わせていた。
残念ながら、同二日から始まった三好・赤松家の二正面作戦は枝吉衆の徹底した防御戦術を前に阻まれ、攻勢は失敗。同十一日には三好長慶の本隊も増援として明石に送らえたが、有効な戦略を見いだせないまま三好軍は伊川谷方面に、赤松軍は大蔵谷を越えて舞子方面に陣を下げていた。
一般に、冬場の戦は攻勢側が不利とされている。
そのため、三好軍は攻城戦の始まる少し前、十月の内に冬場の戦において、少しでも条件の良い設営可能な場所の確保に努めている。特に、三好豊前守之虎は伊川谷の古刹三身山太山寺との繋がりを重要視しており、寺を訪れると明石郡内での禁制を敷くことを誓い、協力を呼びかけている。
この策は功を奏し、寺社勢力を自勢力に取り込んだことで地元住民への説得は有利に働き、三好軍は防衛に向いた明石川の上流一帯を抑えつつ夜露を凌くことに成功していた。
一方、義祐の軍はいえば、基本雨晒しである。彼は朝霧川の西にある大蔵院の申し出を断り、あえて播州勢に川を渡らせて明石の浦の漁村に陣を敷かせていた。
この時、義祐が何故断ったのか、軍事的に妥当なのかどうかは正直理解に苦しむところではある。
大蔵院の山号は見江山。応安三年(1370)、五山禅の高僧中厳円月が開山し、赤松政村(円心)の孫赤松祐尚が構えた屋敷跡をそのまま寺院として利用してきたという歴史を持つ。
そのためか、前期赤松氏最後の戦いとなる嘉吉の乱においても、全国の大名はおろか同じ播磨国衆が赤松にそっぽを向く中、大蔵院は赤松家に対して敬意を払い、支援を絶やさなかったされている。
嘉吉の大乱の後、大きく赤松家は権威を失墜させたときも、大蔵院だけは親赤松の姿勢を崩すことはなく、祐尚の息子の則尚、甥の赤松満政の二人が、播磨全土を簒奪せんとした但馬山名氏に対して挙兵した際にも協力を惜しまなかった。
そんな生粋の赤松党の寺からの申し出を辞したことに関し、この物語の語り手たちは、大蔵院が枝吉城まで僅か一里の距離しかないために義祐が戦火に巻き込まれることを惜しんだとも、そもそも義祐の軍勢が赤松家当主である父の意向を汲まない独断専行によって立ち上げられたもので、大蔵院の力添えまで得てしまっては大事になりすぎると考えたためではないかと推察はしている。
しかし、詳細は分からない。
義祐の真意について云々は後世の方々におまかせするが、筆者としては、この年、天文廿三年が播磨国では戦乱続きの年であったため、春と夏の作付けが十分に行えず、遠方での長陣に耐えられるだけの糧食を義祐が準備できなかったという説を推す。
地図を広げれば、明石浦に程近い枝吉城は、赤松家が領する播磨と三好家が領する畿内をちょうど分かつ位置に置かれている。
枝吉より西で陣を張れば、播磨一国で義祐の軍を支えねばならず、滞在が長くなれば長くなるほど播磨の負担が増える。無理をすれば捻出できなくはないだろうが、続く尼子氏との決戦を視野に入れれば金より兵糧のほうが軍事的な価値を持つ。
ゆえに枝吉城の短期攻略に失敗した義祐は、本国播磨の負担を減らすためにそれまで方針を切り替え、三好家の勢力下にある海路を利用した兵糧確保に動いたというもの。大量の物資を一度で運ぶには舟を、という物資運搬の原則は今も昔も変りない。輸送費を少しでも浮かせたいのであれば、畿内に近い方が良い。




