03・雲州尼子大東征1-1
【参照事項】
年号…天文六年~八年(1537年~1539年)。
場所…播美作三国(兵庫県南西部~岡山県中部)
《 1 》
天文六年十一月。
冬枯れ始まる中国の山々を津波が通り抜けた。
白と群青の軍旗、美作の国境を越える尼子の軍勢は万を超している。一路、ひたむきに東へ。
黒鉄の鎧に、色とりどりの縅糸。黒い津波は群狼となり、浦上方の備前備中国境の防衛線を飲み込むと、怒涛の如く東に駆ける。さらに東へ、さらに東へ。決して、ひと所に留まろうとはしない。
鎧袖一触。ひと月足らずで、尼子軍は備前国の西部一帯をその波間に沈め、勢いそのままに波頭は備前国の東部を喰い破り、果ては美作国境より播磨国境になだれ込もうとしていた。
世にいう、尼子の大東征。
史上類を見ない一大上洛戦として知られ、その呼び水となったのは京都を追われた高國派残党の盟主・細川氏綱からの援軍要請だったと言われる。しかし発端はどうあれ、この一連の軍事行動は尼子氏側による示威行為の色が強かったといわれている。
他にも朝廷側からの要請を受けたためだったとも、あるいは幕府の安定を求めた豊後の大友氏からの檄文がきっかけだったとも、諸説挙げ連ねられるが現存する資料からだけでは断定には至らない。
現在も多くの歴史研究家の心をとらえて離さないこの現象は、もしかすれば、ひたすら東を目指した彼ら自身にも明確な理由なんてなかったのかも知れない。
ともかく、天文六年の冬から始まった尼子の大波は、強大な武力を前に美作国西部の国人衆のほとんどを平らげると、播磨国境にまで到達。播磨諸侯にも尼子への帰順を迫っている。この時、尼子に靡いた播磨の有力勢力の中には、赤松家一族衆の一角を務める小寺氏の当主・小寺則職も含まれ、あろうことか則職は尼子軍の先陣を務めていた。
名将・宇喜多能家を失い、家臣間で猜疑心に囚われた浦上軍に勝ち目などない。次々と突破されていく防衛線を前に、浦上一族の有力者・浦上国秀は次世代当主の政宗、宗景兄弟を束ね上げ、赤松家との一時的な講和を乞うた。
赤松家としても独力で対抗するには尼子の津波は巨大過ぎた。当主晴政は国秀からの提案に一も二もなく同意し、播磨備前同盟は急拵えながら協議の機会を設けて、相互で連携を取りながら決戦に向けて動き始めていた。
その一つ、美作国内を進軍する尼子軍に追走するように、山中を静かに走破する影があった。
影は十人程度の小集団。皆猟師や農夫の格好に身を扮し、木陰や岩陰から、目の前を通過する尼子軍の動向をつぶさに監視、時折姿を現しては狼煙や手鏡を利用しては遠くの仲間に信号を送っていた。
その一連の動きは洗練され、動きによどみも迷いもない。
「さて、如何か」
「……相変わらず見事なものだ」
影から連絡は、絶えず少し離れた高台に設置された七条政元の本陣に送られていた。
およその兵力、武器の種類、武将の数など、微に入り細に穿つ徹底した情報収集能力に、政元は密かに舌を巻く。手慣れた様子で発光信号を読み取る副官は、もくもくと手元の地図上に尼子勢の予想進路を立てているが、こころなしか上機嫌に見えた。
「前線の様子はどうなっている」
「まだ粘れると言う者もいますが、大殿は早晩の内に主力を播磨内部へと下げるお考えのようです」
「なるほど。悪くない判断だ」
尼子に並走しているのは、同盟軍の手勢。
佐用氏や豊福氏など佐用郡の西播諸将を中心した彼らが隣国美作まで出張り、尼子軍の動向を伺う斥候を務める。西播諸将にここに辿り着くまでの道中の苦労は多く、播磨置塩の赤松本家との連絡も、尼子に真っ先に尻尾を振った宍粟宇野氏の手勢によって今も邪魔され続け、物資補給の経路すらも度々寸断される情勢下にはあった。
だが、それも彼らとて折り込み済み。
「ああ、そろそろか」
斥候の情報通り、尼子本隊が本陣目下の間道を通過していくと、政元は引き続き影に監視を続けるよう連絡を送り、素早く陣を引き払うように命じた。
美作国内の七条別働隊は全てを併せても僅か五百足らず。尼子家先陣の半数にも満たない。
真正面から遮二無二挑めば、たちまち崩壊するのは目に見えている。
だから彼らには、最初から戦闘を行う気がない。彼らの役割は、身より実。情報収集を主とするために、同盟側は秋口から美作国内のあちこちで仕込みを行なっていた。そのため国境沿いの山中では、ある場所では臨時の兵糧貯蔵庫が築かれ、ある場所では狼煙台や武器庫を隠し設置するなど、出雲街道沿いの山全体を一つの城に見立て、要所要所に小隊を配備させていた。
「……荷駄隊、来るぞ」
通常、本隊に追随する荷駄隊はその物資の重さゆえに足が遅く、戦闘にも慣れていない。
政元の合図一つで別働隊が飛び出すと、灌木や逆茂木で敵の荷駄隊を囲い込み、完全に相手の進路を閉ざす。狭い街道、前後を突然塞がれて慌てふためく尼子勢を、隠れていた五人程度の部隊が四方八方から射撃を行ない、更に混乱を煽る。
手柄首を落としても、七条別働隊は気にも止めない。
荷駄隊の抵抗が弱まれば彼らは抜刀して斬り込みを行い、持てる限りの物資を略奪した後、残りを火にかけ、再び山に身を隠す。古い時代、悪党と呼ばれた者達が用いたゲリラ戦法だが、その手法は色あせることはなく、戦国の世でも十分通用する。




