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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿七章・西播怪談実記草稿十三【天文廿三年十一月廿一日(1554年12月15日~】
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31・西播怪談実記草稿十三3-1

 ー3ー



 天文廿三年十一月中頃、立冬が過ぎ、安芸国吉田の里も確実に冬の気配を感じる。


 今日は雲が一段と低い。


 茶一色の褐葉に染まった山々には、全ての葉を落とした枯れ木の姿も少なくなく、夏、白鷺を鈴なりにさせていた椋の大木にも鳥達の影が無い。灼ける日差しに身を焦がしていた泥亀も物言わず土の中に帰り、目線の先、庭木として植えられた柿の木に僅かに残された錆びた朱色だけが、過ぎ去った秋の名残を物悲しく世に留めていた。


 風はすっかり北風。


 吉田では猿掛山から郡山にかけて多治比の川沿いに東西に大きな街道が走り、その途中において北の大峠に向かう林道が丁字の三叉路で交わる。いつものこの時期であれば人々の往来があってしかるべき。月に何度か市場が出現し、流れの行商人や出雲商人らが寄り集まり、大きな時には沖原や中原の道端にまで広がって露店が並ぶこともある。


 しかし、この初冬の市場は閑散としていた。


 八月の終わり、津和野の吉見正頼が力尽き陶・大内の軍門に降ったという報告が入ってからは、安芸国山里、周防国山代の反毛利一揆は勢いをさらに増し、彼らを鎮圧し終えたのは十月ももう終わろうかという時期までかかっていた。


「……本来であれば、稲刈りを終えておらねばならなかったときじゃ」


 ぽつりとつぶやいたのは、毛利家当主毛利隆元(もうりたかもと)


 思った以上に足止めを喰らったものだと述懐する。隆元の判断で毛利は陶・大内に反旗を翻すことを決めた。


 この身の丈に合わぬ決定の裏には、遅くとも昨年天文廿二年末までに、尼子家中の内紛を予見する裏付けが揃ったことが挙げられる。今回、毛利は後方を気にしなくても良いと決め打ちしたことが功を奏したが、尼子晴久が行った新宮党誅伐の犠牲者は三千人にも上るという報告も毛利家の情報網には引っかかっていた。


 実際そこまでの規模の惨劇となったかどうかは分からない。尼子晴久の手による情報封鎖は徹底され、隆元にはどれくらいの規模の弑殺が行われたかが判別つきかねる。


 ただ、市場では売り物となる商品が確保できず品数を絞って営業している店がほとんどで、毎月訪れてくれる贔屓(ひいき)の出雲商人は姿を見せていない。店の者に聞けば、やはり安芸国だけでなく出雲や石見、周防にいたるまで作物の植え付けや収穫が間に合わず、充分な量を用意できなかったのだという話がほとんどだった。


「やはり、出雲の方は酷い事になっておるのじゃろう」


 今回、隆元は自身での市の見回りを買って出ていた。通常そのような任務はもう少し下の者にやらせるのだが、この時ばかりは市勢の実情を自分の目で確認しなければと、彼の気性としては気が済まなかった。


 

【彼は遅くとも昨年の天文廿二年末までには、尼子家中の内紛を予見していたとされる。】

・毛利家文書663号。

(http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-773.html)

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