31・西播怪談実記草稿十三2-1
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木下藤吉郎、ーーーつまりは日本三英傑の一人、日本国内において豊臣秀吉その人についてその名を聞いたことがない人間は恐らく存在しない。
通説において、農民の出とも下層武士の出とも言われた彼は、その才覚を遺憾なく発揮して一代で天下人の階段を駆け上がり、ついには当時の貴族の最高位・関白の位に就任して伏見の花見ののちに間もなく人生の幕を閉じる。そんな彼の立身出世の物語を描いた創作物は『太閤記物』と呼ばれ、江戸時代から現在に至るまで広く世間に認知されながら今日の私たちも目にすることができる。
この物語において、彼こそが『終わりの天下人』。
播磨史において彼が残した爪痕は深く、彼が訪れる以前か以降かにおいて播磨国内は文化レベルで明らかな変革が起きている。それほどまでに彼は播磨から多くのものを奪い、播磨に多くのものをもたらした。
当時の人間からすれば、秀吉とは生きている特異点の様な存在とも言えただろう。
しかし、天文廿三年霜月現在、後世の『終わりの天下人』は仕官仕立ての小者でしかなく、ねね(高台院)との恋愛結婚も果たせていない。そもそも主家の織田弾正忠家自体、尾張国守護代の清洲織田家(織田大和守家)を制したばかりの弱小勢力。織田弾正忠家当主の名前が播磨まで知れ渡るのは永禄三年の桶狭間の戦い以降となる。
当然、二人の邂逅は今しばらく先のこと。
お互いが青年期を過ごした天文年間末期、尼子氏の内紛が続くことを見越した赤松惣領家は失地回復に向けて備前浦上氏との連携をより密とするという方針を固め、七条家も両家の鎹として機能する必要がある。
新しい時代はもうすぐそこまでやってきていた。




