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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿六章・摂州三好乱入ニ【天文廿三年十月十二日(1554年11月7日)~】
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30・摂州三好乱入二5-2

宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)


・臨済宗の僧。父は浦上掃部入道覚性(一国)。母は赤松円心の姉。弘安五(1282)年、播磨国揖東郡小宅庄に生まれ、元応元年(1319)、叔父の円心(当時は則村)が宗峰のために京都紫野に法堂のみの小さな院を建立したのが大徳寺の始まりとされる。後に妙超は後醍醐天皇から絶大な信頼を得て大燈国師の称を贈られている。

 元弘三年(1333)十二月一日、後醍醐天皇は大燈国師に乞われるまま、国師一門の浦上氏発祥の地・播磨国浦上庄を大徳寺に寄進。代替地には大徳寺領・下総国葛西御厨が選ばれている。しかし翌四年一月十九日、浦上庄において、栄、山下部、熊代などの村々も大徳寺領の寄進地として選出されるのだが、天皇側の調査が不十分だったことから先に浦上庄一部の地頭職の綸旨(りんじ)を得ていた長井弾正蔵人貞頼や某為景らと大徳寺との間で激しい訴訟合戦となり、浦上氏が仲裁に当たっている。



大林宗套(だいりんそうとう)


・臨済宗大徳寺派の僧。大徳寺九十世。三好長慶は百万の軍勢よりも宗套の一喝を恐れてたと伝わる。武人、文人問わず当時の教養人と幅広く交流し、津田宗久や千宗易とも親交があった。



【小宅寺】

・当時は臨済宗大徳寺派の寺。近くの寶林寺が宗峰妙超の生まれた寺院であり、こちらの小宅寺が宗峰妙超の育った寺院という話が伝わる。のちに臨済宗から真言宗へと宗派を変えているが、江戸時代、龍野藩主脇坂家の菩提寺となった際に宗派を変えた話と、明治時代の廃仏毀釈で一度廃寺となり、その時に宗派を変えた話が存在している。

 

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