30・摂州三好乱入二5-1【宗峰妙超と大林宗套】
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同月下旬。
小寺政職の献策によって三木別所に裏から手を回ることが決まった。
この時、白羽の矢が立ったのは、飾西郡才村砦の主・才伊三郎だった。
才伊三郎は永正十四(1517)年生まれ。後世の資料、『村上源姓赤松氏譜』によれば、初めは祐治、後に政直を名乗ったとされ、苗字でこそ『才』だが、彼もまた赤松家に名を連ねている。同資料によれば、現当主・赤松晴政の子の一人といわれ、赤松義祐とは三つ離れた兄として記録され、永禄十一(1568)年六月五日、数え年四十九歳で没と記されている。
しかしながら、この物語において、赤松晴政の生誕は永正十(1513)年。
さすがに四歳の子どもが子孫を残せるはずもなく、それならば上記の何かが間違っている。赤松家の家系図は複数の家系図を統合して作り上げたものが大半で、こうした不都合は珍しくはない。細かい部分の整合性が取れるように今後も精査を続けられてしかるべきである。
しかし、ともかく実子だったのか妾腹だったのか養子だったのかは不明だが、伊三郎とて当主・赤松晴政の子として育てられたことは間違いなく、確かに彼の名は赤松家の歴史に刻まれている。
この現当主の縁者の伊三郎の立場を利用すれば、護衛としてある程度まとまった数の兵員を連れ出すこともでき、面子を重んじる別所側に対する外交役にも申し分ない。まさに三木に送り込むには持って生まれたうってつけの人材と言えた。
実際、政職の思惑通り、別所側も伊三郎に対して不快感を示すことなく、すんなりと彼とその護衛複数名を三木城内へと通している。
その上で、政職は次期当主・赤松義祐に赤松軍主力と小寺兵数千を任せ、京都大徳寺の口添えで明石にまで出てきた三好長慶と直接面会する段取りを取り付けた。
この外交戦の裏には、浦上政宗の命で播磨浦上庄の小宅寺が動いたとされるのだが、これは後世の物語なのでそのまま鵜呑みにする事はできない。
しかし、播磨の危機を知った小寺政職が旧知の浦上政宗を裏から頼り、京都大徳寺の祖、宗峰妙超を輩出した浦上一族の長・浦上政宗を通じて播磨龍野の小宅寺から大徳寺に働きかけ、大徳寺の大林宗套が播磨侵攻中の長慶に対して「播磨の事は赤松に任せよ」と大喝したとなれば絵にはなる。
では、そんな事がこの時期の播磨であり得たのか。
ーーー『それ』は、尼子の本拠、出雲からもたらされた。




