30・摂州三好乱入二4-3
「下らん。皆、戦いくさで金も人も消費するしか脳がない。俺なら知らん奴らの戦など捨て置き、宣教師どもから製法を聞き出してこの播磨から日の本全土に鏡を売り捌く。皆の懐が温まれば世の喧しさ、煩わしさも幾分かはマシにもなろう……」
義祐の脳内には、国内のある計画の副産物として得られた情報があった。
そも、播磨という国は晴政が赤松家の当主になる以前から絶えず外からの脅威に晒されている。
そうした外敵に対応するため、赤松家としても播磨国内の防衛力の底上げが必要不可欠な課題となり、その対応策として、主に既存の城郭施設の増強と、古い時代の砦跡の再利用という大きく二つの政策が掲げられていた。
義祐が得ていた情報は、その後者から派生したものとなる。
古今東西、播磨国は大小さまざま二百を優に超える城砦を築いてきた。その中には、長く風雨に晒されたことで城郭としての役目を既に終えて廃棄された地点も少なくはなかった。
だが、道はそうではない。城同士、砦同士を繋ぐ道は整備さえすれば現役で使用できる。
そのため、再利用計画の中には「余裕があれば砦周辺の地質調査も同時並行で行え」という内容が盛り込まれ、城砦としての復活は無理でも、鉱山としての使い道があるのではないかという期待が持たれ、播磨各地に山師達が送り込まれていた。
今は亡き七条政範の兄・正満が鞍掛山で行っていた鉱山の試掘もこの計画の延長線となる。
そして今、義祐の脳裏にあったのは広山の新鉱脈。
細月村近くの広山の南には、鶴谷と呼ばれる山間の谷筋がある。鶴谷には赤松円心以前の建久年間、得平三郎頼景という武将が砦を築いた記録が残るが、近年その鶴谷から良質な銅鉱石が発掘され、山師らからも将来を有望視できるだけの鉱脈が見つかったという報告が届いていた。
比較的鉄を豊富に有する播磨だが、銅を産出できる山は極々限られる。
報告を受けた義祐は小躍りしたい気持ちを抑えきれず、最終的に実地検分に送らせていた櫛田左馬之助、井口某、鞍田某の三名の帰還を待たず、報告を聞いたその場で十五貫もの大金を山師に渡してたことからも、当時の彼がいかに喜んだかが分かる。
「三好の家の者は相当な権勢をほこっている。南蛮渡来の鏡の一枚や二枚、当主でなくとも御一族衆でも手に入れる伝が幾通りもあるのだろうさ」
心底羨ましがる義祐の独り言を聞いて、政職の目がふと座る。
「我が君よ。今、なんと申されましたか」
「当主でなくとも、御一族衆でも、だが……」
突然の思考を遮断する政識の声に、義祐は慌てて同じ言葉を繰り返した。
「そう、そうなのです。別に当主でなくても良い。まさにその通り。私どもには格好の御方がいらっしゃられるでは居るではありませぬか」
言いつつ、政職の瞳はもう義祐の存在から興味を失っていた。
政職は新たに湧き出でた自らの良案を実行すべく、速やかに書状をしたためると、下男を呼びつけて最寄りの砦に向かうように指示を飛ばした。
この間、政職は義祐に一切の相談を行っていない。
「さてさて用件は済みましたな。我が君も有意義なお時間をお過ごしください」
後に残された義祐はしばらく呆気に取られていたが、雑踏の中に消えていく自分の家臣を追いかけることもなく、ただ漫然と、その後ろ姿を眺めているだけだった。
【弦谷鉱山】
・別名、鶴谷鉱山、金子山鉱山。鉱山としての正式な開山年は不明だが、少なくとも江戸時代前期には鉱山の存在が知られ、近隣の弦谷村、三原村、広山村、久保村の四つの村が幕府によって天領とされていた。ここから産出した鉱石は黄銅鉱が主で、わずかに銀や水晶が含まれていたという。現地には天正年間(1573〜1592)に地元の赤松一族によって開かれた話と、正平年間(1346〜1370)に赤松円心が発見して採掘を始めた話が伝わっている。
【井口某と鞍田某】
・二人の名前は不明。しかし、三日月町史第四巻の中に、天保六(1835)年の弦谷大火災の折、弦谷の井口家を中心に、広山の鞍田弥三郎、田子野の木南甚三郎、三日月の安積富右衛門、中安の土井の稲谷与兵衛ら各村の庄屋が助け合って弦谷観音庵の再建した記録が残る。その中に井口家と鞍田家は赤松一族との記述もあり、恐らくこの二人も赤松家衰退後、地元で帰農して庄屋を営んだ井口家と鞍田家に関係がある人物だったのではないだろうか。




