幕間2
「……寒い」
頭上の空は、夕闇の藍色から墨汁をぶちまけたような闇夜へと変貌を遂げている。
ドライブは実質的には一時間少々。しかしその間にも、夜気の降下は留まりを知らず、車内の空調に慣れていた私の頬を突き刺さし、少し息を吸えば、鼻奥に痛みが走るレベルまで低下している。眩い星明かりの下、ほとんど灯りらしい灯りのない山道の先に、マヨイガよろしく古い民家が一軒。
時代を感じさせる白熱灯の明かりが、煌々と私達の到着を待ってくれていた。
この物悲しい屋敷の主が青年の雇主らしい。
「すいません、少し遅れました」
「……お邪魔します」
青年がを玄関の扉を叩くと、屋敷中からは、小太りの厳格そうな老人が現れる。
「こんばんは御二方、遠路遥々よく来てくれた」
老人は、私の突然の来訪に驚いた様子もなく、快く迎え入れると、挨拶もそこそこに奥の広間へと招き入れた。玄関框を上がり、私達が通されたのは、広さ十畳はあろうかという大広間で、部屋の真ん中には、現代では珍しい囲炉裏が組まれ、天井から伸びる鉤には、夕食と思しき土鍋が吊られていた。
「まあ遠慮するな。どこにでも座るといい」
「…………」
並べられた座布団は、全部で四つ。上座と下座、あるいは真ん中か、どの選択肢が一番良いのだろうか。考え抜いた末、一番下座に座ろうとすると、そこは既に青年が陣取っていた。
「お先にいただきます」
「馬鹿者。お前は小鉢を運ぶのを手伝え」
「あいよ」
青年はおどけた様子で立ち上がると、私の頭を軽く叩いてから台所に向かっていく。
どう考えても確信犯だった。
「さて悪いが、客人には灰汁取りをお願いしたい。猪肉なんで、結構手間がかかるかも知れん」
「あ、はい」
気を使われている。
老人からお玉を受け取ると、鍋の灰汁取りをしつつ、たまに火箸で木炭を弄ってみる。
その都度、囲炉裏の温度は大きく上下し、火の細かな調整のコツを掴むためには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「なんだ、若い人は囲炉裏が珍しいか?」
配膳をする老人が、私の悪戦苦闘を見て楽しそうに笑っていた。
「ええと、はい」
「そんなに固くなるな。どうせあの男の口車に乗せられたんだろう」
「…………」
正直、答えに戸惑った。老人の快活な喋り方は年齢を感じさせないが、軽く重圧感を感じてしまう。
「あの、やはりご迷惑でしたか?」
老人は無言。
「あまり虐めてくれるな。まだ若いんだ」
青年が襖を足で開け、広間に顔を覗かせた。
「ふむ。よく分からんが何か非礼をしたようだな。すまなかった」
「あ、いえあの…」
青年のフォローなしでは、老人が配膳を終える前に、私の心臓が止まっていただろう。
「さて何を飲む?日本酒?ビール?悪いけどサワー系は売り切れで、何故か泡盛があるけど…」
振り返ると、青年がサーバーを片手に、空いているもう片方で酒瓶を幾つも抱え込んでいた。
「あ、未成年なんですが」
「そっかそっか。待ってなよ、茶を用意してくる」
「ありがとうございます」
「……そうそう、明日から山に入るから、御神酒として最初の一杯だけは必ず口に含んでくれ」
「それなら少しだけ頂きます」
町には町のルールがあり、山には山のしきたりがある。郷に入れば郷に従え、私が頷くと青年は嬉しそうに笑った。ついで老人が一升瓶を開け、四つの器に順々に酒を満たせていく。
最後に、青年が急須と湯飲みを持ってくると、いよいよ宴は始まった。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
前口上なく老人が音頭を取ると、陶器同士がぶつかりあう。
鈍い音に合わせ、杯を一気にあおると、日本酒独特の、もわりとした酒精が口の中全体に広がる。
私は、この初めての味にむせた。想像以上の強烈な刺激に、一部が気管支の方に流れ、痛いやら熱いやらで落ち着きを取り戻すのに、少し時間がかかった。
「全く、慌てなさんな」
「……」
「やっぱりね。ほれ焙じ茶」
「……どうも」
食事が始まると、会話の主体はやはり旧知の二人のものとなる。
最近の調子、今の家族のこと、昔の思い出話など、彼らの話の種は尽きない。私は聞き役に徹して、食べることに専念する。今夜の献立は、鍋をメインに、人参と大根の芋和え、山栗の塩焼き、里芋の茎の梅酢漬け。いずれも老人の力作だった。
貧乏舌の私でも、美味い料理に舌鼓を打つという言葉の意味を理解するには十分過ぎ、あの時の食事についてもう少し書き加えるならば、二人の酒のペースとアルコール耐性についてを少々述べたい。
彼らは、基本的にコールや一気呑みをしない。
ただ話の合間に涼やかに飲み干しては、すぐに器を空けてしまう。その勢いは、ものの三十分でサーバー二本を空けてしまう程の勢いだった。乾杯から一時間もすれば、部屋の隅には、ビールの空き缶が山と積み上げられていた。
それでいて、二人には微塵も酩酊した様子がなく、思い出話にあれこれと花を咲かせていた。
正直、人体の構造を疑いたくなる光景だった。
「おや、どうした?」
「……トイレはどちらに?」
「ああ、そこの襖を開けて、廊下の突き当たりを右に行くとある。尿道炎は怖いからな」
さらりと下ネタに流れそうだったので、飛ばしっこの記録に盛り上がる青年と老人を尻目に、大広間から脱出させて貰うことにする。
「…寒い」
この台詞は、今日で何回繰り返したことだろう。
それにしても、囲炉裏の暖かさは石油ストーブのそれ以上で、炭火から放たれる遠赤外線によって、じわりと身体の芯に残る温もりを提供してくれていた。
こうした火の暖かさは、囲炉裏端を離れて初めて分かるもので、夜の冷気がいつの間にか、こんなすぐ傍まで来ていたことに気付かされる。
私は教えられた通り、トイレまでの道順を辿って用を足す。
「…………」
思えば今日一日は、驚きの連続だった。
普段の生活からは何処か逸脱しているけれど、それは決して不快なものではない。
「……感謝だな」
二人の好意はありがたい。
「何かお礼しないと…」
流し終えた後、再び廊下に出るとやはり寒さが身に染みた。
と、ドサリと、隣の部屋から何かが崩れる音がした。
気になって障子を開けてみると、そこは老人の書斎だった。
ざっと見ただけで、幾つもの分厚い本の山が部屋を所狭しと埋め尽くし、机の上や床には丸められた紙クズが乱雑に投げ捨てられていた。音の正体は、そうした本の山の一つが崩れたもので、冊子が障子にぶつかって生じたものだった。足元に投げられていた紙くずを一つ拾い上げ、くしゃくしゃと中身を見たが、よく判らない文字の羅列ばかりで解読は出来そうもない。
古文書、古い文体の文字列は、同じ日本語でも現代とは大きく異なる。
詮索すべきか少し迷ったけれど、結局、私は書斎を後にして、二人の元に戻ることにした。
「お帰り。出した分は中に入れるといい」
「…………」
襖を開けた私に投げ掛けられた最初の言葉は、こんな下ネタだった。
「やあ、廊下は通れたかい。あそこはゴミが積まれて、いつも通り抜けに苦労するんだ」
「馬鹿者、今はそこそこ片付いとる。昔の話を蒸し返すな」
老人の苦笑に青年が素知らぬ顔で応じている。あの書斎の惨状は、すでに周知の事実らしい。
「はい、平気でしたが、あの本の量は凄かったです」
「おや部屋を覗いたのか?」
「…すいません。突然物が倒れる音が聞こえたので、てっきり誰か居らっしゃるのかと」
「ほら、やっぱり片付けてないじゃないか」
青年が茶々を入れて、場の空気を緩ませた。
「ああ、そういえば悪いんだけど、天体観測の件、やっぱり無理かも知れない」
「うむ、こいつの話を聞くと、あんたは遥々都会から星見をしに来てくれたみたいだが、この時期、この場所では星自体が見えないんだ」
「? …ええと?」
時刻は、まだ午後九時半。
夜はまだこれからだというのに、この二人は奇妙な事を言い始めた。
「ははは、特に他意はない。理解し難いかもしれないが、ここの地形が原因だ」
この町は中央に大きな川の流れを持ち、周囲を山に取り囲まれている。
晩秋から初冬にかけて、気温に大きな寒暖の差が生じる時期は、昼間川で生じた水蒸気が凝固し、深い濃霧が町全体を包むのだという。山間の老人の家は、川から上がってきた霧の通り道に位置して周囲一面が乳白色で覆われるらしい。
「まあ百聞は一見にしかず。騙されたと思って襖を開けてみなさい」
「……?」
ガラリと襖を開けると、私は自分の目を疑った。
何も見えない。夜空はおろか、先刻私達の通ってきた山道すら、白い霧の海に沈んでいた。
「もう少し高い山の上からなら、雲海の様に、霧全体の動きが見えて綺麗なんだが、さすがに今から外に出るのは少々危険だな」
「すまん、俺の失策だ」
「いえ、こんな景色初めて見ました。眼福です」
本音だった。自然の神秘というか何というか、昔話の世界に出てくる仙人の里に来ているようで、恥ずかしながら青年期の私はなんのかんの少し興奮していた。
「ふむ、気に入って頂けて何よりだ。けれど、出来ればもう少し閉めてくれるとありがたい」
老人は、囲炉裏の火を弄って遊んでいた。
「それから、…あんたは怪談はイケる口らしいな」
「歴史関係にも知識があるみたいだし、せっかくの機会だ。この土地の怪談があるんだが、聞いてみたくはないか?」
「それは、興味ありますね」
怖い話は大好物。興味津々で襖を閉めると、私は囲炉裏端に腰を下ろす。
老人はニンマリ立ち上がり、角にある神棚から何かを取り出した。
それは小さな桐の箱だった。
「この箱を開ける前に、君は、寒戸の婆という話を聞いたことがあるかい?」
「…ええと確か、東北地方の昔話だったかと」
寒戸の婆は、柳田國男の遠野物語にある有名な民話の一つ。
ある日、東北地方の寒戸という小さな村で、一人の若い娘が消息を断つ。
村人達全員が探したが、どういうわけか娘は見つからない。やがて神隠しにあったのだろうと、捜索は打ち切られ、村では娘は死んでしまったものとして扱われ、やがて彼女の存在は忘れられてしまう。
しかし、それから三十年後、村に事件が起きた。
一人の山姥が村に現れ、神隠しの娘の家の戸を叩いたのだ。山姥は、自分がかつてこの村から消えた娘本人だと話し、家族の無事を確認すると、安心したのか、再び山の中に姿を消してしまう。
その後、娘の姿を見たものはなかった。
「確かそんな内容だったはずです。小学生の頃、図書館の民話集に、なかなか怖い挿し絵があったのを覚えています」
「そうそう、その通り。で、その話だが、君はいつ頃成立したかを知ってるかい?」
これは初耳もいいところだ。
「……あの、そもそも実話だったんですか?」
「うむ、この物語の根本は、明治初期東北地方の登戸村という場所で起きた実際の事件が発端とされている。ある時、村の若い娘が忽然と姿を消し、やはり何十年も経ってから、娘が山姥同然の姿で村に帰ってきたそうだ」
「ん、この二つの違いは、寒戸の婆だと娘の帰還は一回きりで終わっているけれど、登戸の婆は、何度も姿を消したり現れたりを繰り返したらしいけどね」
「地元ではモンスケ婆と呼ばれてる。その婆さんの物語が元ネタなんだそうだ」
老人が慎重な手つきで蓋を開けると、中には一房の髪束と、やけに鋭い歯牙が一つ、丁重に納められていた。
「……そしてこれらは、この町に伝わる『鬼』のものとされている」
「その髪束と歯にも、何か由来があるんですね?」
ゴクリ、と息を呑み込んだ。
「では始めようか」
―――チィン……。
そして老人は懐から小刀を取り出すと、鍔を鳴らせた。
厳かな雰囲気に囲炉裏端が包まれる中、老人の夜語りはこうして始まりを迎える。




