29・摂州三好乱入4-1
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さて、天文廿三年十月十二日(同11月7日)、政範一行は二手に分かれた。
則尚は播磨国才村に戻り、赤松義祐に経過の報告を行い、政範と僧侶は、有馬国光と共に播州三木城との接触を試みる。
この時点では、赤松惣領家と三好家は公にはまだ家同士の交流を持っていない。互いの当主同士の正式な社交の場が整えるまでの準備期間である以上、政範も出過ぎた真似は控えててしかるべきだが、しかし外交的には赤松家全体に有利となるよう水面下で動かねばならない。
「……お話を伺いますところ、三好殿も播磨進出の野心はおありの様子。それ自体は事実でしょうが、一方で、好んでまで戦を広げようとしてはおられぬと周囲の者には漏らしているとも聞いております」
将軍家とのいざこざは、常に三好家にとって重い足枷となって付きまとう。
国光の口ぶりから察するに、三好家の間者が播州に深く入り込んでいることは国光も感知している。そして、将軍家との戦いに向けて、さらに播磨国人衆の取り込みを図るべく、調略の手を国光のもとにまで広げていたたことがその口ぶりが察せられた。
「もちろん、当家は丁重にお断りさせて頂きましたが……」
三好家による有馬氏の切り崩しは一定の成果を得ている。実際、国光自身も西条城がもう少し東に位置していれば御家存続のために三好傘下に入るという選択肢があり得た。
「幸い、この辺りの地侍らは、加古川の糟屋氏(糟屋朝貞)を筆頭に、魚住、尾上、志方などでは我ら同様、細川殿に味方する声が多うございます。仮に三好が攻め込んできたとしても、我らには生半容易には突破させぬだけの備えが御座いますので、置塩の御屋形様にもそうよろしくお伝えいただけますでしょうか」
そうした防衛拠点を加古川東岸では構居と呼んでいる。
溝居は城郭ほど大きくないが、普段使いの館の周囲を土塁や堀などで厳重に囲い、広大な加古川平野の中で無数の荊棘となって侵入者を迎え撃つ。この防衛陣は赤松家の祖・源秀房(源季房?)が考案したもので、機動力を生かして通過しようとする敵の足を止めさせて消耗を強いるために効果的な布陣を取っていた。
「嘉吉の折には、山名の軍勢を前に皆で一丸となって戦い抜いたと聞き及んでおります」
ゆっくりと両手を広げながら説明する国光の言葉には、自分達こそが播州東の防衛に努めているのだという強い誇りと、赤松総領家に対する確かな期待が含まれていた。
恐らく、先の戦での赤松総領家の活躍が東播諸侯にも伝播している。東播は総領家から見捨てられたわけではない。実情はどうあれ、赤松家が総力を結集して尼子を撃退させた事実は確かに彼らの心に響いていた。
「して、我々は何処に向かっているのでしょう」
加古川を北上し三木へと向かうには、川沿いの街道筋から途中で支流の美嚢川を遡る道が比較的ひらけて最も分かりやすい。
当然三好軍もその経路は押さえに来ている。
三木別所側の直接交渉は、口にするのは簡単だが実際に行動に移すとなればかなりの困難が伴う。
三木に近づけば近づくほどに、三好勢の警戒網は狭まり発見の危険性は増していく。
西条の城を出て間もなく、土手沿いの舟着き場ではいつもの船頭らに混じり、どう見ても普段は舟仕事に関わりのないであろう風態の男達が徒党を組んで監視に当たっているのが遠目ながらにも確認することができた。
【源秀房】
・おそらく源季房の誤記。古大内城の説明板にも秀房の記載あり。
『今鏡』によれば、源季房は右大臣・源顕房の子とされる。丹波守、加賀守を歴任した後、天永二年(1111)の暮れに季房は播磨国佐用郡に配流されたという。当時中央の高官が播磨国に流される際には西端の佐用郡が選ばれることが慣例化しており、播磨時代の季房と地元有力者の娘との間に子が生まれた子どもが今日まで続く赤松家の血の始まりといわれている。




