表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿六章・摂州三好乱入一【天文廿三年七月三日(1554年8月1日)~】
250/277

29・摂州三好乱入3-1【茄子のたたり】


 ー3ー


 世に、土地に根ざした病がある。



 紀南地方の牟婁病然り、八丈小島のバク然り。その土地独特の病を風土病と言う。風土病の中には、かつて栄華を誇った平家の長・平清盛を襲った「(おこり)」や、昭和中期まで甲府盆地で猛威を奮った日本住血吸虫由来の地方病等も含まれる。


 その風土病の一つに、六甲山系特有の「なすび歯」という現象が存在する。


 日本古来、なすび歯、という言葉自体は他の土地でも貴族や既婚女性が自らに施したお歯黒を指し示す愛称とも蔑称とも分類できない単語として使用されていた形跡はある。しかし、この北摂津、武庫川支流のごく一部の地域では、なすび歯は口腔内における歯牙表面の特徴的な黒化変色を意味していた。


 現代においては、斑状歯(はんじょうし)と呼ばれる歯牙の発育異常。


 斑状歯が発現するほとんどの地域では、土地の人間が利用する井戸水の中のフッ素含有量が基準値を大幅に超えて含まれる。高濃度のフッ素イオンを含有する水を生活用水として日常的に摂取することで、歯牙の形成期に特徴的な斑模様や帯状の白斑、あるいは茶褐色のしみが生じる。


 こうした歯を、土地の人々は「なすび歯」と呼び、昭和三十年代に宝塚市の努力によって上水道が整備されるまでは「茄子のたたり」として畏れられていたという。


 これは、江戸後期に「なすび歯」という名前の連想から、茄子の種にまつわる六部殺しの伝説が作成されたことで、やがて地元名産の茄子の育成が中断に追い込まれるという事件を引き起こすのだが、それは政範らには預かり知らぬところとなる。


「……遠路はるばる。なんとも災難でしたな」


 天文廿三年十月十一日(同11月6日)、西条城主・有馬播磨守国光は大きく頷いて政範からの報告を受けていた。


「確かに、貴殿の申される通り。そうした特徴を持つ者らが住む土地があることは古くより我らも知り得ておりましたが……まさか、まさか」


 ここ西条城は、加古川東岸、播州平野の中にぽつりとたたずむ小高い山の上にあり、明石と三木を結ぶちょうど中間に位置している。この山城は、もとは六世紀後半に造られた古墳で、この地方では全国でも珍しく、古墳から出土した石棺に直接仏や梵字を彫り込んだ石棺仏をそこかしこで目にすることが出来る。


 そんな石の仏たちに囲まれた城山(じょうやま)の中には、柴鳳山法雲寺という小さな寺が建てられていた。


 政範と有馬国光が面会したのもこの法雲寺となる。有馬国光は、同族の有馬重則やその他の有馬郡の諸侯のように摂津三好に付和雷同することもなく、有馬郡守護・赤松民部少輔村秀ら赤松有馬氏嫡流の面々と足並みを揃え、赤松総領家と三木別所氏との誼に重きを置いてくれる貴重な存在となっていた。


「さささ、申し訳ありません。お疲れのところを、何しろ気がきかぬもので。白湯でよろしければ用意させますゆえ、皆様も奥の間にいらしてください」


 そういって国光が奥の客間に三人を通すと、程なくして寺男が四人分の膳を用意して並べて始めた。膳の上にはまだ湯気の立つ白湯が注がれた湯呑みと共に小さな饅頭が三つ、それに酢菜、香の物が置かれていた。これに汁物を添えれば立派な点心となる。


「どうぞ。愛想もない菜饅頭となりますが」


 お口にあえば宜しいのですが、と、政範が勧められるまま口に運ぶと、丁寧に蒸らしたのだろう。饅頭の皮にはまだ熱が残り(もろみ)で味付けされた野菜餡も熱々の状態で出てきた。それを白湯ではふはふと流し込むとなんとも言えず人心地が付く。


 冷える時期なのでこうした気遣いはありがたい。

 

 少し塩味が強めなのは恐らくこの辺りの冬が厳しいのに所以している。日本全国、寒ければ寒いほどに冬の糧食が塩辛くなる。これは保存性を高めるのを目的とするだけでなく、塩分の多量摂取によって冬場の体温維持させるための寒冷地の生活の知恵となっていた。

【点心】


 室町期の日本では茶の文化が広まるにつれて同じく点心の文化も成熟しつつあった。享禄元年に記された武家故実の大書・宗五大草紙は名著。後に南蛮貿易の拡大により国内の砂糖流入量が増えると独自の菓子文化が一気に花開き、今日私たちが口にする和菓子が誕生する。



【赤松民部少輔村秀】


 通称・又次郎。天文九年十二月から永禄二年五月まで有馬郡守護を務める。


 天文十九年八月に名塩村と木下を教行寺に寄進し、弘治元年十一月には、清水寺にたいし霜台田の年貢進納を確約。これは村秀が現地に年貢進納を命じたことを清水寺に伝えたもので、従来の寄進状とは内容が異なる。おそらく、現地の抵抗により年貢収納が実現できない状況となり、清水寺があらためて村秀に願い出たのであろう。


 また、村秀には湯山阿弥陀堂の諸公事を免除した形跡もある。さらに、上津畑の公用銭進納にも関与し、未進に関する三好長慶からの書状に返書を送っている。


 村秀の官途は弘治元年段階でも民部少輔であるから、天文廿一年三月及び永禄二年五月に幕府奉公衆としてみえる有馬民部少輔は村秀であろう。


 小林基信『有馬郡守護について』より抜粋


※天文年間には、龍野赤松氏にも赤松村秀が存在するが、龍野の赤松村秀の官途は下野守で天文九年に既に没している。何故か一部の資料では龍野赤松氏の村秀との混同がみられる。一応注意。



【茄子のたたり】


船坂新聞Vol.1 茄子のたたりという話

http://funasaka.sakura.ne.jp/post/2016


※斑状歯はフッ素関係となり色々デリケートなので後ほどまとめます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ