02・備州騒乱4-3
翌朝早く二人は目覚めた。
廃集落を後にすると、雑木林の中を遺棄された道を辿る。蝉はまだ外が群青色の時間から鳴き始め、気温が上がるにつれて鳴き声を変えていく。
今日も夏日。
日差しを遮る雲はない。脇を流れる小川には、束の間の涼を求めて山の蛇が群れをなして集まり、女を驚かせた。シマ、青大将、カラス、当時まだ毒蛇と認められていないヤマカガシなど、多種多様な彼らの頭を踏まないようにすり抜けて、山を降りていく。
太陽が南中を少し過ぎた頃、麓に降り立つ二人を、夏草取りを止めた農民が驚いた様子で出迎えた。
「申し訳ありません、この土地の領主殿は……」
「……佐用様です。お武家様、何か佐用様に御用件でも」
「ええ、内密な」
ぼさぼさ髪の若武者は、返答を濁した。
四十半ばの農民に敵意はなく、どちらかと言えば、有り得ないモノを見る視線をしていた。
「あの、すいません」
「何か」
「お二方は、生きた人間なのですか。貴方様方がいらっしゃったのは、……その」
農夫によれば、あの廃集落は二十年以上も前に放棄され、今では幽霊や鬼の住処と化しているとされ、村では怪談のタネになっているという。
慌てて二人が否定すると、農夫は笑って泥まみれの指先で佐用氏の屋敷を指し示した。
後は自分達で行けということらしい。
農夫は再び腰から鎌を外すと、忙しなく畦道の雑草取りへと戻っていった。
「忙しいのですね」
「……急ぎましょう」
佐用氏は赤松家の有力家臣の一つ。赤松家内では御一族衆に分類され、赤松八大力の一人に数えられていたことが知られている。
佐用氏の先祖佐用範家は特に高名で、範家は鎌倉時代末期、後醍醐天皇が発した幕府討伐の詔に従い挙兵した赤松勢が六波羅軍との戦いで劣勢に立たされる中、久我畷において僅かな手勢を率い、敵の総大将名越高家を一矢をもって討ち取るという抜群の戦働きをみせた。
恐らくだが、このときの範家の戦功が無ければ、足利幕府の祖足利尊氏が後醍醐天皇方に味方することはなく、幕府成立後の赤松家の地位向上もない。
そんな佐用氏の主な所領は播磨と備前を分断する佐用郡の東部を主とする。
かつて都の高官が配流される際には、慣例的にこの播磨の西の端が選ばれ、赤松家の血統も佐用郡に流されてきた源季房という人物から始まっている。
郡内中央を清流千種川の支流佐用川が流れ、四方を山に囲まれた陸の孤島。
播備作の結節点という地理的要因もあってか、一種の政治的緩衝地のような位置づけとなる。よれゆえか、置塩の赤松惣領家の影響もそれほど強くはなく、赤松家家中でも佐用氏はやや独立色が強い傾向があった。
そしてそれは備前の浦上氏に対しても同様で、佐用氏当主は赤松からも浦上からも一歩引いた位置で戦国の世を眺めている。
若武者が落ち延びる先としてこの場所を目指した理由もそこにあり、誰が敵か味方か分からない現状において、二人に許された数少ない選択肢だった。この佐用を追われれば、最早彼らに居場所は無い。
身分を捨て、家を捨て、全てを捨ててもまだ足りない。命さえも捨てねばなくなるだろう。
だが、二人の心配は杞憂に終わった。
佐用氏側は、赤松惣領家と浦上氏の複雑な政治情勢を読み取ってか、二人を匿うことをあっさりと受け入れることを許可した。彼らの為に、街道筋から少し離れた山間に小さな庵を用意するように配下に命じ、心ばかりの宴まで開いて二人の逃避行を歓待した。
宴が終わると、久方ぶりの風呂も用意され、二人は布団に寝転び、後は泥のように眠りに就く。
これ以降数年間、佐用郡は小康状態の期間を得る。
多くの西国大名達が己の地盤固めに走ったため、二人が逃げ込んだ播磨国まで手を出す余裕がなく、束の間の平穏を得る。勿論、播磨の国人衆の内乱こそ絶えなかったが、それでもこの時期以降に比べれば、例え仮初めであったとしても平穏は平穏といえただろう。
やがて山間の庵が出来上がると、二人は身分を隠し、庵の周囲の小さな畑を耕しながら、慎ましやかな生活を送るようになる。
その様子はまるで夫婦のようだったと、土地の伝承には残されている。
【赤松八大力】
他のメンバーは赤松氏範、妻鹿長宗、粟生師時、田中盛兼、田中盛泰、頓宮入道、頓宮員利。




