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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第廿六章・摂州三好乱入一【天文廿三年七月三日(1554年8月1日)~】
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29・摂州三好乱入2-1


 ー2ー



 ふっ、と七条政範の後ろで福原定尚、否、名を改め今は則尚だったか、福原則尚が一刀のもとに野伏を切り伏せた。


 天文廿三年十月十日(1554年11月5日)、政範と則尚の二人は、東播磨加古郡に入り込んでいた。


「……若、次が来ます」


 どう、と倒れた仲間の亡骸を回収しようと、新たに現れた野伏三人が接近を試みようとする。


「応」


 そうはさせじと今度は政範が斬り結ぶ。


 三度刀を振るう間に政範が野伏二人を打ち倒し、残った一人も則尚が背後から斬り付けたことで卒倒。音もなく地面に倒れた。視線を左右に動かしても他に怪しい者の姿はなく、周囲に耳をすませても人の気配は無い。


 緊張がほどくため、政範が大きく息を吐いてから再度周りを見回した。


 と、則尚と目が合った。


「どうかしたのか」

(いえ)、若も御父君に似ておられるのだな、と」


 誉めているのか、と怪訝そうに政範が問いかけようとするが、いそいそと則尚が懐から手ぬぐいを出したことで質問の機会は奪われた。早く拭き取れということらしい。


「……かたじけない」


 上月城奪回を成し遂げた七条家だが、現状、城の所有権は棚上げされたままとなっている。


 この時期、赤松家と備前浦上氏の間で結ばれた例の協力関係はまだ生きていた。


 こういう所は西国国人衆らしいなあなあ具合とも言えるが、備前浦上氏は尼子の相手に備前国境を取り戻そうと動き、赤松家は赤松家で播磨国内に入り込んだ摂州三好氏と三木別所氏との戦の状況を探る必要があった。


 それゆえに現状で互いに争っている場合ではない。


 今年の春と夏の戦後処理を扱った協議が同時並行で開催され、赤松と浦上の使者が播州と備州の国境を行ったり来たりしているらしい。あくまで噂の範疇だが、明確な結論こそ出ていないものの、両家の間では上月城の扱いもそうそう変な方向には進むまいという見解が赤松・浦上の家臣団の間では流れていた。


 福原定尚の変名も両家の協議の結果のひとつで、上月城奪還の功績を認められ、佐用則答より『則』の一字の偏諱(へんき)を賜っていた。


「先ほどの集落では人の姿が見えないと思ったが、まさか野盗の類まで住み着いていたとはな」

「御坊もお怪我はありませぬか」


「…………」


 すっと、背後の草陰からは避難していた僧侶が姿を現した。彼が今回の任務の肝となる。

 

 政範らの主命は、この僧侶とともに加古郡入りを果たすこと。


 依頼主は赤松家次期当主・赤松義佑。西国街道を通って郡内へ入り、宗佐(そうさ)集落を拠点に、折を見て三木別所氏に三好との停戦を促すよう、西条城主・有馬播磨守国光と元中道子城主・孝橋新五郎秀時の二人に渡りを付けるように命じられていた。


 特に、孝橋新五郎秀時の父、秀光は五年前の天文十八年に摂津三宅城で戦死している。その際、秀光の子の秀時は中道子城を捨て、佐用郡上月西庄の浅瀬山城に移っていた。この時の僧侶はそんな孝橋秀時の紹介によるものだったとされている。


 室町期の日本では、説得に儒者や僧侶を連れていくことが相手に対する重要な礼節のひとつとなる。どこの所属かの記録には残されていないが、この僧侶こそが西条城主、中道子城主、ひいては三木別所当主に中立の立場から説得に当たる予定となっていた。


「……問題はありませぬ。この者どもらとて何かしらの理由がありましょう。無用な殺生とならぬよう少し弔っても宜しいか」


 自分達を襲ってきた人間達の供養というのもおかしな話だが、他に怪しい者の姿もないことから、政範は僧侶の願いを許可した。


「御坊の好きなようになされよ」


 僧侶が遺体の始末をしている間に、少し佐用氏と東播磨について触れていきたい。


 一聴して、西播磨を本拠地とする佐用氏と東播磨とは全く縁が無いように思われる。


 ところが、実際にはそうではない。赤松氏も佐用氏も、はたまた三木別所氏も源流を辿れば村上天皇の第七皇子具平親王の源師房の孫・源季房へと辿り着く。初めて赤松姓を名乗ったのは季房の曾孫・則景の子、家範の代だったとされていて、三木別所氏はその則景の叔父・頼清を祖とし、佐用家は則景の弟・頼景が祖となる。


(もう少し追記するのであれば、宍粟宇野氏の祖は則景のもう一人の弟・為助が佐用郡宇野庄高倉山を居城として改姓したのが宇野氏の始まりとなり、現赤松総領家老の小寺家はその為助の長子・為頼が明石郡伊川庄に出て小寺城主となったのが縁だったとされている。)


 そんな佐用頼景より下ること二百年、佐用家八代当主・佐用則政の時代。


 則政に男児が恵まれなかったために赤松一門・赤松満政の子、赤松教政を養子として迎え入れたことがある。教政は作用兵庫介の名を与えられ、しばらくは佐用の地で育てられていた。


 それが明徳二(1391)年十二月、幕府に不満を覚えた山名氏清が京都に攻め上った所謂(いわゆる)明徳の乱の折、当時侍所にいた赤松家麾下の佐用則政も山名軍を迎え撃ち、多数の討ち死にを出させながら大功を成したことを受け、佐用家にも東作州の一部と印南郡(いなみぐん)望理郷(まがりごう)が与えられたという。


 このとき、則政は新たに得た宗佐の地に城を築き、宗佐城と望理郷の管理を作用兵庫介という人物に任せたという記録が残る。


 佐用家の家督自体は、応永八(1401)年に誕生した則政の直系の後継ぎ(九代・佐用弥三郎上野介祐景)が無事に元服を果たしたため、作用兵庫介が佐用の家を継ぐことはなかったものの、嘉吉の乱以降は名を赤松教政に戻し、赤松家残党の旗頭として最期まで山名に逆らい続けたとされている。

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