28・備前沼城争奪戦二4-1
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天文廿三年八月中頃。トンビが空高く鳴いている。
ススキの青い穂先が僅かに膨らみ、昼過ぎの日の光には確かな秋を感じ始める。柔らかい陽光に照らされる青い稲の匂いに包まれる中、とぼとぼと歩いて美作に帰る雲州勢の一団があった。
彼らは総大将尼子晴久を筆頭に、晴久派の一党となる。
備前西部に侵入した備中三村勢との決戦に及ぶべく、意気揚々と軍を率いて来た尼子晴久らだが、残念ながらその目算は見事に空振りに終わった。尼子軍主力の来訪を聞きつけた三村家親はすぐさま軍を纏め上げて本国備中へと踵を返し、晴久が到着した時点で備中備前の国境の防備は固められ、長期戦に持ち込もうとする三村軍が手ぐすねを引いて待ち構えていた。
正直、またか、と晴久の顔には落胆以外の諦観にも感情が滲み出ていた。
確かに、室津からの補給で尼子軍全体で短期決戦を行う程には回復できていた。が、これから訪れる冬という季節を跨いでの長陣ともなれば全く別の話。相変わらず引き際を誤れば出雲に帰る道を失いかねない状況は続いている。
「……またか、またなのか」
晴久の声からは覇気が失われていた。
周辺豪族ら向けのプロパガンダ内では、尼子軍は今回の遠征において快進撃を続けたことで悲願だった美作東部を奪取し、備前北部に橋頭保を構築。また、播州一帯でも播磨守護の赤松家の居城・置塩を包囲して武威を轟かせてみせたのだと実に勇ましい。その上で、室津の軍勢との連携を受けた尼子軍全はまだまだ継戦可能な余力が存分に残っていると一方的な勝利宣言を行っていた。
これは完全な嘘ではないが、真実とは呼べない。
実際、備前西部に到着した晴久らに出来た事と言えば、備中三村軍の刈り働きを免れた稲田を死守すべく金川城近くに陣を敷き、稲が熟すまでの期間、常駐軍を置いて備中勢の侵入に目を光らせることを約束しただけで、晴久が期待した決戦と呼ぶような戦闘は全くというほど行われていない。
勿論それだけでも金川城主・松田左近将監元堅からすれば非常にありがたかったらしく、城主直々に晴久に厚く御礼を述べている。
だが、この遠征を締めくくるような、本当に尼子が勝者であると高らかに宣言できる戦果は何も挙げられなかった。
恐らくだが、これまでの約半年間続いた遠征の中だけでなく、昨年の備後失陥以来尼子軍が勝利らしい勝利を得られていない原因ははっきりしている。




