28・備前沼城争奪戦二2-2
「こんなはずではなかったのだ……こんなはずでは」
忌々しい事だが、国久の思いとは裏腹に、天神山攻略を諦めて練り上げた起死回生の一手、沼城攻略も意図しない方向に転んでいる。
美作国内の治安維持に苦闘する晴久派を他所に、国久ら新宮党が、備前の堅城で知られる沼城を、それも僅かな数で抜いたことで、悪い意味で晴久派と新宮党の力の差を歴然と浮き彫りにしてしまった。これは備後戦線から播磨戦線まで晴久派に振り回され続けの新宮党の、特に若い人間の鬱屈した心を不用意に刺激した。
国久の息子・尼子誠久を筆頭に、党内では当主・晴久を糾弾する声は止まず、日に日に声が高まっている。
「……この国難の時に何を考えておるのか」
尼子家の本柱は軋みを上げている。
その軋みを聞きつけたか、石見国では那賀郡本明城主・福屋隆兼が周辺領主の調略に向けて動き始めたという。福屋氏は石見国国人衆の筆頭、益田氏の庶流。現在益田氏嫡流は大内氏重臣として大内方に従属しているが、福屋氏は天文二十年の大寧寺の変で大内氏が衰えて以降は毛利と接近していた。庶流とはいえ福屋氏の持つ横の繋がりは無視できるものではない。
石見の離反を防ぐには、国久が直接出向いて睨みを利かせる必要がある。
尼子家当主・尼子晴久が再度備前西部に侵入した備中三村の軍勢に備える為に尼子軍主力を率いて備前金川城支援に向かったばかり。時期から察するに石見福屋氏を備中三村氏は連絡を取り合っている。裏で糸を引く毛利の影がチラついて離れないが尼子が取れる手段は限られていた。
「目障りにも、毛利の隠居は儂等を休ませる気はないらしい」
小癪な、と国久が呟く。支持基盤の弱さは先代より続く尼子氏最大の急所。前当主・尼子経久は勢力拡大政策を取り、そのカリスマを以て軍を推し進め、配下への恩賞として惜しみなく与える気風の良さで繋ぎ止めていた。現当主・晴久の代になってからは尼子は下り坂。与えられる恩賞も限界が近い。
頼みの綱は石見国の銀山群となるが、こちらも今は周防大内家の手中にある。前年四月には、銀山経営に深く関係を持つ山吹城代・刺賀長信のもとに大内義長名義の石見阿濃郡刺賀郷五百貫と邇摩郡重富村四十貫の安堵状が届けられるなど、銀山支配を確実なものとしたい大内氏の侵略の手は石見国内に確実に入り込んでいる。
毛利家の前当主は、生半には埋められない尼子の泣き所を的確に突いていた。
「……残念だが儂はここまで。残りは誠久に任せるしかあるまい」
国久はどうしても彼のみが定めねばならない決裁だけを済ませると、今度は重臣を引き連れて出雲国へと旅立つ。
恐らく美作に残される戦力では備前独立派の手に堕ちた沼城は取り戻せまい。だが、室津からの便は既に予定分を運び終えてある。美作方面の尼子軍の軍備が充足したため、以前ほど沼城に戦略的価値はない。仮に城の争奪戦に敗れたとて、それはそれで驕った誠久への灸となろう。
尼子国久、御歳六十三。足場の脆弱な尼子氏にとって、まだまだ必要な人材だった。
【輸送費、牛一頭当たり麦二斗は妥当かどうか】
実はこの問題、物語中において尼子晴久がどんな判断を下したかは記されていない。
実際のところどうだったのか、素人ながら少し紐解いてみる。
先ず、戦国期日本の麦の価値が米の価格と比較してどの程度だったのか。
一応、中世日本において、穀物の物価は毎年の出来不出来で変動していながらも一定の幅で安定していたとされる。永正十三(1516)年の甲斐都留郡の僧侶のメモを参考にすると、麦の価格はおおよそ米の値段の三割程度(28/100)と仮定する事ができる。
次に、荷駄の駄賃として参考するのが、時代が下って慶長十一(1606)年の備前国の資料、一駄当たり公定升で5.13升、慶長十二(1607)年の町升で一駄5.5升というものだが、こちらに先程のレートを代入してみると一駄当たり約18.3~19.6升となり、大体二斗(一斗=10升)となり計算上では概ね正しくなる。
そしてもう一点、レートの変動値に関して。
物語の話の筋的に、尼子軍は播磨国から美作国へと物資を運び込んでいる。そのため、筆者は尼子軍は一揆で荒れた美作国より戦災を免れた播磨国北部で牛飼いを雇ったと考える。別資料から播磨国矢野庄、奈良、安芸太良庄などの米価を見てもあまり変動はないことが伺える。そして、輸送の駄賃については標準升の変化はあれど、戦国期以降、播磨北部における米麦換算レートにあまり変動が無かったのではないか、といった内容の証言を旧兵庫県宍粟郡千種村西河内集落の住人が残している。
平成三(1992)年刊行・『日本の食生活全集28 聞き書兵庫の食事』によれば、
明治四十年代に生まれた方々の証言の中に、「千種村は山間地にあり、西河内は町の北に入った集落となるために標高六〇〇メートル、村内でも最も雪深い土地となる。西河内集落は寒冷地となるため、米の裏作が出来ない。そのため日常は白飯。麦飯はたまに炊く程度。麦は町から買ってきたり、農耕用に山崎の町場の人間に牛を貸し出し、その代償として『年間二斗』貰ったものを大切に使う」といったものがある。
この書籍は戦前までの兵庫の各地域の暮らしをまとめて文章化したもので、どこの誰が語ったかまで記されている。
この証言が正確ならば、播磨北部における農耕牛の一般的な貸し出し料の認識が第二次大戦前までは『一頭当たり年間二斗』だった様子が伺える。天文二十三年当時、尼子軍が一体どのくらいの期間牛を借りていたのかは分からない。しかし、徴発と軍役に振り回された牛飼い一家が、さらに農耕用の牛を使役させられたとなれば、その代償として年間使用料くらい請求しても罰は当たらないのではないだろうか、というのが筆者の結論となる。
実際に幾ら支払われたのか興味は尽きない。
なお、この推論における天文二十三(1554)年から戦前までに約380年の間に起きた物価上昇は標準升の変化分のみ。そのため天文二十三年の播磨国内の二斗が『里之売買十合』を使用しているため凡そ28リットル。現在のニ斗は凡そ36リットルとなるところを鑑みると、千種村西河内集落における380年間の麦の物価上昇率は1.28倍という知見を得た。
さて、かなり雑な推察となって申し訳ないが、これはあくまでも推計。たまたま都合も良い数字に行き遭っただけでミスリードの可能性もある。この輸送費問題、皆さまは妥当か否か、いかがお考えだろうか。
(中世の物価)
https://coin-walk.site/J020.htm
(金属を通して歴史を観る)
https://arai-hist.jp/magazine/baundary/b5.pdf
(中世西日本における使用枡の容積と標準枡)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/76/4/76_KJ00007943783/_pdf
(日本の食生活全集28 聞き書兵庫の食事)
播磨山地の食 171頁




