28・備前沼城争奪戦二2-1
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同時期、尼子国久は美作国に居た。
否、むしろ国久は美作国に来ざるを得なかったと言い換えた方が良い。
本来であれば前線の指揮官を続けるべき国久がわざわざ美作国まで引き返して来たのは、当主尼子晴久の美作国統治の失敗が最大の理由として挙げられる。彼の懸念は現実のものとなっていた。
六月、七月を通し、新宮党を排した晴久派は美作国における発言力を強める手筈を整えていた。
ところが、実際に起きたのは全く真逆。
美作国西部の国人衆を中心に晴久派の新たな政治体系に反発。美作の問題は美作の者に任せよという、従来通りの自治権を主張してはばからなかった。これは美作国人衆らが自分達の既得権益を失う事を嫌った面もあるが、それ以上に彼らにとって尼子晴久個人の存在自体が受け入れらなかった。
無理からぬ事ではある。
いかに晴久が晴久派と新宮党を分類して「良い尼子」を演じようと、最終的な責任は尼子家当主に行き着くのは当然の理。今年春以降から続く軍役と徴発、民衆への狼藉、寺社仏閣に対する焼き討ち、反乱分子の駆逐、それらの責任は全て、実行した者よりも命令を下した当主へと恨みが集積する。
立場としては、晴久が上で国久が下。
そもそも「悪い尼子」たる新宮党がどれほどの悪事を働こうと、晴久派に本当に力があれば配下の暴走を力で捻じ伏せられる。
それが出来なかったために、晴久派は美作国内における求心力を保てなかった。
元より、晴久派の方針として、美作の国人衆を直接力で押さえつけるのではなく、与力という形で配下を派遣させていたことも彼らが軽んじられる要因となったのかもしれない。
結果として、晴久派の直接統治はすぐに形骸化し、彼らの扱いも御座形なものとなっていた。
例を上げれば、訴訟事。訴訟事ひとつにしても、軽い内容の訴えであれば晴久派に回されるが、比較的重い内容であれば新宮党主の意向伺いを行った上で国人衆側が独自の裁定を行っている。横から晴久が何かを言おうとしても、美作国人衆は聞く耳を持たず、なにかと理由を付けては晴久の意向を避けるようになっていた。
軽い内容の具体例としては、尼子軍が播磨国宍粟郡より美作国へと兵糧を再搬入した際の借り賃がそれに該当する。
播磨美作間の荷運びにおいて、尼子軍は馬だけでなく牛の力も利用して峠越えを行っていた。その際の牛の借り賃が一頭当たり麦二斗。これが妥当かぼったくりか、貸主と借主で言い争いとなったのだが、こうした程度であれば晴久派の管轄として回された。
しかし、一族の者が反尼子一揆に参加し、捕縛された後の処遇をどうすれば良いかなどとの重要な議題となれば、途端に晴久派の手を離れる。こうした比較的重い訴訟は旧来の付き合いのある国久ら新宮党のもとに届けられ、党首の尼子国久の判断が求められた。
こうした一種のやっかみのような態度について、後世の語り手の中には、自分達は尼子経久や尼子国久の武力を前に降ったが新参者の尼子晴久には降っていないとする、美作菅家や美作後藤氏などの古い家の誇りも手伝ったとも言う人間もいるが、それはあくまでも推察の域を出ない。
万事その様な具合だから、備前侵攻中の尼子国久としては堪らない。美作統治は晴久派の仕事のはず。そう家中で決めたから、不服ではあるが備前侵攻の任を引き受けたはずだった。
だが、実際には三日と明けず事ある毎に国久の元には美作国人衆からの使者が届き、かと言って断ることもできず国久の頭を悩ませた。




