28・備前沼城争奪戦二1-1
天文二十三年八月二日(1554年8月29日)、深夜。
夜の闇を味方につけて、戸板を筏代わりに備前独立派の諸将は泥田を渡ろうとする。
筏、といっても兵士らは戸板の上に乗るわけではない。戸板に片膝を預けるようにして体重を支え、残った片足で泥の中を蹴って進む。兵士らの中には反り板に直接桶を結えて沼を渡ろうとした者もいたというから、諫早湾の潟スキー様の代物が使用されたのかも知れない。
彼らに求められたのは静穏性と隠密性。
この日、備前独立派による沼城への攻勢は四度目となる。
最初の攻勢は昼間。先の尼子軍と同じく二方面から城攻めを試みている。残念ながら第一から第三次まで続いた攻勢では目立った戦果はなく、周りの泥田を突破する段階で城兵からの矢弾が激しく、被害が大きくなる前に兵を引き下げていた。
今回の夜襲に用いられる機材はその際に捨て置かれたもの。見方によっては偽装撤退だったとも言える。以前尼子軍が使用した竹束は城が接収される際に全て引き上げられていたため、独立派に先行部隊が戸板の上に置かれた編んだ竹を新たに沼に沈め、後続部隊が編み竹の上に筵を敷いて道を造る。
急拵えの戸板スキーが現代の潟スキーと同等の性能があったかどうかはさておき、この方法は理に適う。
編んだ竹は攻勢部隊の足が泥に沈み込むのを防ぎ、筵は沼を渡る音を吸収する。わずかに漏れ出す水音は秋の虫の声に紛れさせる。備前独立派が勝負を急ぐのには明確な理由があった。
ひとつは、天候。
夏が終わり、秋が近づいている。
東備前では、毎年この季節には一日か二日ざっと強い雨が降り、強い雨は止んだ後にしばらくして七日ばかり続く長雨を連れてくる。誰もが知る秋雨前線の訪れ。例年ならば九月の上旬に強い雨がやってくる。その季節の訪れを告げる合図が、曼珠沙華の芽が地面から顔を出す頃、という事を誰もが知っていた。
現在、夏の後半に夕立が少なかったため、泥田へ流れ込む水量が大幅に減少し、湿地帯の面積が限界まで縮こまっている。
これは攻城側にとって極めて有利に働いているのだが、この状況はもってあと半月。
強い雨が降り始めれば城の防衛力はたちまち回復してしまう。
ふたつめは、尼子国久の不在。
前月の二十八日以降、新宮党の実質的な指導者が備前沼城を離れている。
詳細は後で述べるが、尼子国久は取り巻きを連れて美作方面に向かっていた。備前独立派が国久不在の報を知ったのは翌二十九日。指揮官不在の絶好の好機を逃す手はなく、国久が戻る前に必勝の戦仕掛けるべく策を練り、諸籠り中の村人らも動員して三日三晩かけてこうした竹細工と筵を編み上げている。




