27・備前沼城争奪戦4-1
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この年、七月中旬から下旬にかけて、備前片上を経由して、室津浦上領で集められた荷駄を乗せた馬借の群れが途絶えた日はなかった。
ぞろぞろと行き交う馬借らの向かう先は皆同じ、一路、美作国を目指す。今回ばかりは直接新宮党が輸送隊の護衛に当たり、絶対無事に物資を届けるべく命を掛けていた。その気迫たるや凄まじく、かなりの数が警備隊として随伴し、備前独立派が妨害に出向くのを見つけると逆に待ってましたとばかりに襲い掛かる。
そのため独立派の被害は増すばかりで、夜間に進路に障害物を置くなどの消極的な妨害策しか講じれず、結局それも夜を徹して街道中を血眼で駆け回る尼子の警護隊の活躍によって効果的な戦果を上げることが難しくなり、宗景が直々に尼子輸送隊への襲撃中止を指示した。
今までの尼子軍とは明らかに違う。
厳重な警備隊を構築した尼子勢になす術なく、備前独立派は大量の物資が北に流れて行くのをただ指を咥えて眺めるしかなかった。
それでも斥候の手は緩めず、沼城の監視を怠りはしない。
備前国沼城を支配下に置いた尼子国久は、傘下に入れたばかりの城主中山勝政をそれほど信用しておらず、城内に国久の配下である新宮党を駐屯させるだけでなく、一部、美作七流や菅家一統にも協力を要請していた。
美作七流と菅家一統は美作菅家の末裔。天照大神の第ニ子、天穂日命を起源とする美作国きっての名家と云われ、天安二年(858)、菅原道真公の父菅原是善が備前国司となった事が始まりとされる。道真公が失脚した後は一時任地を離れるも、子孫の菅原知頼が今度は美作守の役を任じされ、知頼の子、真兼が押領使として美作国に留まった事で土着の一族となったという。
それゆえ、美作菅家は平安期から南北朝期にかけて活躍し、室町期においても菅家筆頭の有元氏らが奉公衆になるなど美作国や備前東部で権勢を誇り、かなり強い影響力を有していた。
彼らの栄光に陰りが見え始めたのは文亀三年(1503)。有元佐氏が当主になると、東美作の覇権を巡って新免氏との戦いに破れ、本拠地真加部郡河内山を追われた。佐氏は勝北郡中島の有元城にて再起を図るのだが、天文元年(1532)になって美作に尼子軍の乱入が始まると、尼子方に味方した同じ美作七流の福本(元は福光)和泉守に攻められ有元城は落城、当主佐氏は討死を遂げている。
以降、美作七流は四分五裂。
一応次期筆頭の有元佐房が美作七流を再度まとめ上げようとはしている。だが、時流には逆らえない。頼りになるべき幕府は政争に明け暮れ地方を顧みる余裕が無く、ある家は菅家党として従い美作自治に動き、またある家は尼子に降る事で新たな道を開いていった。
美作七流にとって記録が乏しい時期となり、他の中小地方武士団同様、血族間だけでなく親子間であっても家を分けて争いあったと伝わっている。この時沼城に詰めていたのが美作菅家のどの家だったかは分からず、ただ美作七流と菅家一統、尼子氏が菅家党の何処かに頼ったらしい情報のみが残されている。
備前美作を抑えて盤石の体制を築こうとする出雲尼子氏だったが、綻びは思わぬところから生じる。
天文二十三年七月二十八日、同盟側に絶好の機会が巡ってくる。
【美作七流】
・美作七流や菅家一統は美作菅家の末裔。菅原道真や法然上人とも縁を持つ。道真公より十二代もしくは十三代後の三穂太郎を号した菅原満佐七人がそれぞれ改姓し、有元、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、江見の家々に分かれ有元家を筆頭とした武士団を形成した。地元では、廣戸、鷹取の代わりに、野上、豊田の家を七流として挙げている場合もある。
【菅家一統】
・上記の七家に加えて、皆木、小坂、富坂、右手、梶並の四家を合わせたもの。




