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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十四章・備前沼城争奪戦【天文二十三年七月十五日?~八月十二日?】
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27・備前沼城争奪戦3-2


「嘆いても仕方あるまい。儂は儂の成すべき事を為すまでよ」


 落ちた城は取り戻せばよい。疲弊しているのは尼子も浦上も同じ。


 夜通しで宗景は感状をしたためると、翌日は朝から城兵らに連日の尼子軍の攻勢が止んだ事を祝い、ささやかながら一人一人に白酒が振る舞うよう指示を飛ばした。


 戦場で酒宴を、という事に抵抗を覚えるかも知れない。が、これは勿論宗景なりの考えがある。籠城で限界まで張り詰めた神経をひとまず解こうと意図したもので、城兵向けの懐柔策として宇喜多土佐守(延原土佐守?)が提言した案がそのまま採用されていた。


 肴はそれほど大したものは出せなかったが、それでも一部の者には上物の諸白(清酒)も振るわれたらしい。兵士らの労いが済めば、更なる士気向上を図るべく、今度は将クラスの国人衆にも昨晩仕上げたばかりの感状が発給された。

 

 早々に武功を挙げた者への恩賞を確約する事で戦意喪失を防ぐ。忘れてはならない。現在追い込まれているのは尼子ではなく浦上。沼城の実情を知れば必ず誰かが離反しようとする心が生じる。目の前に分かりやすい恩賞をぶら下げることで離反の芽を摘まみ取る。


 思わぬ褒美に、皆の笑い合う嬉しげな声が響く。


 全員に盃が行き届き、がやがやと酒精で気が大きくなるまで待ち、頃を見計らってから一昨日の夜に西方の護り、沼城が陥落した事実を明かす。


「……中山殿がどうなったかは分からん。しかし、周囲の者共にも尼子への降伏を勧めておるところから生きてはおられるのだろう。敗れて直ぐに尼子の為に滅私奉公とは、元気を通り越して気が()れてしまわれたかも知れん」


 城兵らから失笑が漏れる。近隣への降伏勧告が中山勝政が自分から進んで行っているのか、或いは尼子に脅されてやっているのかまでは不明。それでも酒の勢いに任せて誰かが中山氏の責任を追求するべきだと叫んだが、宗景はその提案を薄く笑って聞き流した。


「どちらでも構わん。こうして今まで尼子に膝を屈さなかった我々が、今更ノコノコ降ってみせたところで見せしめに晒されるだけよ。我らは一蓮托生の身、しかしそれぞれの思いもあるだろう。皆の忌憚なき意見を聞かせよ」


 一同、一瞬沈黙となったが、一拍おいて、誰かが打倒尼子を叫ぶ。ここまでやって引けるものか、宗景にこそ正当な備前の主として相応しいと一気にまくし立てると、他の者も追随し、あらためて備前浦上氏への忠誠を誓う声で酒宴の場に溢れかえった。


「……皆の意思に感謝申し上げる」


 そういって宗景は一同の前で頭を垂れると、城兵らは、えい、えい、おう、と声を張り上げて主君への敬意を表してみせた。


「では、皆の者。すまないが、今しばらくは忍耐の時となる。城を落としたばかりの尼子は、我々が取り戻しに来ると思い、必ず兵どもを伏せておる。ゆえに、我らは密偵からの報告を待ち、儂も奪還の際には必勝の策を講じてみせよう。今しばらく、儂を信じて待て」


 言い難い事を伝える。いつの時代でもこの手の業務を行使するのには苦労する。

 

 幸いにして、宗景らが考え付いた策はおおむね城兵らには好意的に受け止められ、わしらは酒でも飲んでゆっくり待たせてもらいますわ、という声とともに、がははと皆が笑い合う。今は酒の勢いで誤魔化せるが、それも長くは持たないのは百も承知。


 必ず奪い返す。宗景だけは酒宴の中でも一切酒に応じず、策を練る、といって奥に引き下がる。


 秋の気配は、すぐそこまで迫ってきていた。

【天神山攻防戦および沼城争奪戦について】


・天文二十三年説の採用につきまして

 すいません。この部分は私(筆者)が聞いた話では、もともと昔の語り手は天文十四年の出来事として話していたそうです。旧版の方は『かつて中山氏は浦上兄弟が争った際に尼子国久の軍勢から夜襲を受けて真っ先に降り~』といった具合で過去編となっています。天文二十三年説を採用したのは後の浦上氏の研究が進んだことによるもので、平成時代に老人の手によって改変されています。


Q……なぜ天文二十三年だったのか。

A……かつて浦上兄弟の相克が天文十三年、もしくは天文十四年と考えられていたためです。


Q……なぜ天文二十四年だと駄目なのか。

A……この時、攻めて来たのが『尼子国久』だと伝わっているためです。尼子国久は諸事情で天文二十四年の備前には訪れることが出来ません。他の記録ですと、昭和十一年刊行の美作古簡集註解巻六(百六十六頁)の矢吹金一郎氏によれば、天文十四年の冬に天神山攻防戦が繰り広げられた旨が記されています。


【保木城】

・城主……浦上宗景の重臣、明石源三郎(明石守重の祖父?)。実在不明。


【保木城の火災】

・岡山県の発掘調査によって、保木城の二つの場所から火災の痕跡が見つかっています。特に、吉井川右岸の山塊の東西に連なる尾根頂部に鉄鏃・刀子・鉄釘・鉄砲玉のほか、約 200kg におよぶ炭化した穀類(米・麦・粟・豆)などが見つかっています。もう一つの場所でも炭化した穀類や古銭が出土したそうですが、規模は前者の方が多かったものと思われます。

・火災の時期については、この天文二十三年のものと後に備前浦上氏と宇喜多氏が戦った際によるものの二つが伝わっていますがあくまでも口頭伝承の域を出ていません。求詳細。

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