27・備前沼城争奪戦3-1
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備前沼城が尼子方に降伏したの浦上宗景が知ったのは、恐らく十七日の夜。
その日、佐伯集落の尼子勢が陣を下げて後方の周匝まで引き上げた事を受け、天神山は俄かに活気を取り戻しつつあった。
昨日までの戦闘で尼子も浦上もどちらも決定的な勝利を得たわけでない。しかし、かと言って南の室津勢が撤退した様子もない。
これは、さしもの尼子も食料が尽きた為に撤退したのではないか、室津勢はその殿軍に残っているのでははないかといった楽観論として城兵らの間で広まったが、夕方前になって南西の方角から山越しに激しい黒煙が立ち上がるのが確認されると、皆の落胆の色は隠せなかった。
黒煙はしばらく消えることはなく、夕暮れが宵闇に置き換わるまでの期間、城内どの場所からでも火災の痕跡を見つけることができたため、恐らく二刻以上は燃え続けたものと思われる。
時折、風に乗ってモノの焼け焦げた匂いが届くようになると、その不安感からか、誰がいうでもなし詳しい情報が入るまでは、という条件付きで皆は口をつぐむようになったという。
その間、同盟側の上層部は、浦上宗景だけでなく播備どちらの国人衆からも協力して複数の間者を城外へ解き放ち、情報の収集にあたった。
夕刻の黒煙の正体が判明したのは夜半。皆が寝静まってからのこと。宗景自身は昨日までの攻防戦における論功について感状をしたためていた時間帯となる。
天神山に報告に上がったのは平井某という人物で、彼は宗景麾下の明石氏に属する播磨出身の人間だったとされる。彼は天神山の南西にある保木城の警護に当たっていた。
平井某の伝える所よれば、尼子軍別働隊による電撃的侵攻によって沼城主中山勝政が敵方に降ったがために、自分達が警備していた保木の城に火を放ち、持てる限りの軍需物資を持って天神山へと引き上げてきたのだという。
突然の凶報に宗景が卒倒しかけた。
保木城は、天神山より二里弱にある吉井川西岸の山城。天神山と備前沼城の間を取り持つ中継基地として重要な拠点としてそれなりの規模を誇っていた。
それだけではない。保木城は備前浦上氏にとっては本拠地防衛の一翼を担っていただけでなく、未完成の天神山城に運び込む予定だった戦略物資の臨時の貯蔵庫としての機能も果たしていた。特に、今の時分であれば、取り寄せたばかりの新兵器、鉄砲本体と黒色火薬が隠し置かれていたのもこの保木城となる。
それだけに、本来であれば容易に攻め込まれない場所に位置していたはずだった。
ところが、一夜にして宗景の目算は脆くも崩れ落ちる。
沼城が降伏した事を受け、尼子国久は中山氏の仲立ちのもと、砂川中流域の豪族に使者を送って服従を迫ることで彼らを軒並み取り込むと、吉井川西岸の肩背集落にまで勢力を伸ばした。
たった一日で保木城は対尼子の最前線に様変わり。
宗景にとって西の要が中山氏の沼城ならば、東の要は明石氏の宮山城。
平井某の上役であるところの明石氏の主戦場は天神山以東、播磨国境までの防衛網を主に受け持つ。その明石勢からすれば、保木城は西の端。中山氏の守備する沼城という分厚い盾を、これほど短期間で喪うのは完全に計算外となる。
平井某の話では、宮山と船坂峠の防衛に人員が大きく割かれ、西端の保木城には警護と伝令を含め、たった二十八名の人員しか配置されていなかった。
「たった二十八名の人間で、一体なにができましょう」
涙ながらに語る平井氏を前に、宗景は言葉を失う。
「……我らとて武門の端くれ。討ち死にすることはむしろ武家の誉れ、何一つ恐れる事は御座いませぬ。ただこうして生き恥を曝しておりますのは、我らは城内より持ち出せた物一式をお渡しせねばとの一念のみ。生きて無事にお渡しして我らは満足で御座います。あとはただ死に恥を曝さぬよう、あの憎き尼子に突撃せよとお命じ下され。我ら平井一族揃って名誉の討ち死にを遂げてみせましょう」
瓦を全うするより玉と砕け散る。
播磨武士の矜持なのだが、宗景からすれば貴重な戦力を犬死させるだけでまるで意味がない。その意思だけで充分といえた。
しかし、尼子に奪われぬようにという明確な理由がありこそすれ、宗景の指示を待たず勝手に城に火を付けた事は一定の咎となる。
だが、宗景は物資を天神山に届けた事で不問とし、幾分かの礼を渡して平井某を下げさせた。
「…………」
保木城に保管されていた鉄砲数は、僅かに二丁。
尼子の所持数からすれば微々たるものだが、この二丁を手に入れたいがために宗景は約二十石もの大金を支払っている。宗景自身、どの様な武具か部下から聞き及んでいたが、実際に銃を手にするのは初めての機会となる。
蠟燭の灯りに怪しく黒光りする銃身を手にしてみると、想像よりずっとずっしり質量感に溢れ、最新鋭の武具としての確かな存在感を放つ。
【平井某】
・一応、平井右馬介。平井某の出である平井一族はかつて播磨に落ち延びた平家の末裔という。真偽不明。彼に限らず西日本各地には平家の落人伝説は結構伝わっている。




