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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十四章・備前沼城争奪戦【天文二十三年七月十五日?~八月十二日?】
230/277

27・備前沼城争奪戦1-1

 

ー1ー



 世に、中山勝政という人間がいる。


 江戸期の軍記物において彼は中山信正と呼ばれ、宇喜多直家の舅として登場し、やがて非業の死を遂げる人物として描かれる。実際、筆者がこの物語を見聞きした際にも備前軍記に基づいて中山信正についてが語られていた。しかし現在となっては実際に判明している史料との乖離が甚だしく、この物語においては令和二年の資料に基づいて少しだけ改編して物語を進めさせて頂きたい。

 

 備前中山氏は備前国沼城を居城とし、もともとは山科家領備前国居都荘の代官であったとされる。


 山科家領備前国居都荘時代の中山氏は天文初年くらいまでは、中山勝政の父中山晴政が当主を勤め、備前国南部の複数の荘園に対して非常に強い影響力を有していたという。同じ備前国人衆である金川城の松田氏や砥石城の宇喜多氏とも交流があったと言われる。

 

 それが天文六年、尼子の備前侵攻が始まると中山氏は一旦尼子方に降り、尼子方の代官として務めるようになる。


 この頃と思われる書状のひとつに、吉井川沿いの竹原荘の神主が公用銭を徴収するために使者を出し、当時代官を務めていた中山勝政が荘内で発生した水害によって年貢の徴収ができなかった旨を使者に報告し、公用銭として三貫文を進納した記録が残る。


 その時登場する竹原荘の使者というのが藤木弥九郎という人物で、藤木弥九郎は尼子氏麾下の立原幸綱からの使者であり、勝政は弥九郎本人にも公用銭以外にも路銀一貫文を渡しているところからも、天文年間初期に中山氏が尼子方に与していたのには疑いようがない。


 しかし、天文年間中期以降は異なる。


 やがて備前国内における尼子氏の威勢が衰えると、中山氏は浦上氏に接近し始め、天文二十三年に浦上氏が兄弟相克を迎えた際には宗景方に味方する事で備前国における同盟側国人衆の重鎮としての立場を得た。


 時勢を見極め、その都度強者に鞍替えする事で家の存続を図る。いわいる、長い物には巻かれろで好みの分かれる精神だが、頻繁に寝返りを行ったところでおとがめは無く、同盟側からも尼子側からも備前国南部における有力地方領主として中山氏は一目置かれていた事がわかる。

 

 そして、物語の舞台の天文二十三年七月十五日(1554年8月13日)。


 中山勝政守備する沼城は、突如として尼子軍の奇襲を受けた。


 沼城はその名の通り、砂川中流域の湿地帯の中にある東と西の丘陵地を利用して築かれた城。山陽道にも程近く、交通の要衝だけでなく、城を取り囲む泥田は天然の要害となり、城の規模はそれほど大きくはないが確かな防御力を有していた。


 その日の夜、まず最初に襲撃を受けたのは東の二ノ丸。


 運の悪いことに、梅雨以降日照りが続いた備前南部では砂川の水量が減り、泥田の防衛能力には期待が出来ない状況が続いていた。

 

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