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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第一章・備州騒乱【天文三年~六年頃(1534年~1537年頃)】
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02・備州騒乱4-1


《 4 》


 同三年七月上旬。


 一人の女が、山路に行く。

 普段は猟師しか通らぬ山中の間道を、あるいは山の獣達が作り出した獣道を。

 鬱蒼とした雑木林では、昼夜の区別はついても細かな日の傾きや確かな方角を知ることが難しい。日当たりの悪い場所では倒木の年輪もあまり当てにならず、少し開けた広間から、あるいは尾根越えのわずかな木々の切れ間から、おおよその見当をつけてひたすらに歩き続ける。


 今はクマザサに浸食された林道だけが、生還への一本道。


「姫様、ここに居られましたか」


 若い侍姿の男が茂みから顔を出した。彼は偵察から戻ってきたばかりだった。


「何か分かりましたか」

「いいえ、全く」

「そうですか」


 彼に対して、女はぶっきらぼうに言い放った。内心では、見捨てられたのかと怖くて追いかけたという女の見栄なのだが、男は全く意に介さない。


「興家様は無事に逃げられたのでしょうか」

「分かりません」

「私の子供も」

「分かりません」


 女は高國の娘、男は宇喜多の家臣の一人。

 二人は三十日夜の脱出の際、島村勢に砥石山を追われて散り散りになっていた。


「今の我々では、御子の無事は神仏に祈るより他ありません。聡い若君と聞いています。無事を信じ、これからのことを話し合うべきでしょう」


 男は実直で、裏表のない性格の持ち主らしい。愛想こそ無いが、無条件で信用の出来る珍しい男だった。


 これまでの道行きでも、足が痛いと言えば憮然としながらも女を背負い、腹が減ったと言えば、僅かに残る食糧でも分けてくれた。

 

 流石に申し訳なくなり、今は女も自分の足で歩いている。

 それでも何かという時には、必ず男は彼女の傍らにいてくれた。


「恐らく、私達は東へ向かっています」


 男は足先で山肌の赤土を(えぐ)ると、小枝を用いて地面に地図を書いて現状を淡々と綴り始めた。


 おおよその現在地や、先程見てきた道のりなど、次々と書き加えられていく情報に澱みは無く、思考も論理的。しかし、真面目な顔で説明する男の首筋には、いつの間に落ちてきたのか、二寸ほどのヤマビルがへばり付き、呑気に腹を脹らませている。


 冷静な男の様子と相俟ってか、女の笑いを誘う。


「……何か御不明な点でも」

「いえ、首元は痒くないのかと」


 女の指摘を受け、男は自分の首にいた小さな襲撃者に触れてみる。

 凄く、嫌そうな顔をした。男は慌てて取り繕うように、モゴモゴと何か言葉にならない言い訳を口走る様子が可笑しくて、女は微笑んだ。


「茶化さないで下さい」

「……ごめんない」


 男は仏頂面で、クスクスと笑う女の頭に薄布を掛けた。


「すいません。こんな時に、山の生き物の心配を忘れていました」

「そんなに恐ろしいの、こんな小さな生き物が」

「否、一匹二匹なら良いのですが、ヤマビルは山に住まう者にとっては厄介な相手です」

 

 ヒルの唾液には麻酔効果が含まれ、殆ど痛みを感じない。気がつけば衣服の隙間から入り込み、身体のあちこちに穴を空け、腹一杯になれば付いた時同様に知らぬ間に剥がれ落ちる。しかし、傷口からの出血は止まらない為、衣服や荷物が血まみれになることも珍しくない。


「その血の匂いを嗅ぎ付けて、狼や野犬が群れをなすのです」


 ニホンオオカミは世界の狼に比べれば小柄だが、非常に頭が良い。付かず離れず相手を追い詰め、隙をついて襲いかかる。送り狼の例えは、彼らの狡猾さをよく表している。


「何か方法がありますか」

「普段であれば、塩気の強い布を用い、ヒルの入り込み易い袖口に巻き付けるなど対策に当たりますが…」


 今の手持ちでは望むべくもない。


「他にも、気をつけなければならないモノは居ますか」

「この時期なら幾らでも。水辺には蝮、繁みの中には毒虫、気の立った猪など、近付くだけで危険な生き物はそこいら中に居ます」

 

 山は静かだが、そこに住むモノ達のむせかえる気配で溢れている。彼らは、平地の異物である人間の存在を許していない。


「ここは山の勢力が強い。いつまでも留まるには危険といえます」


 男は刀を抜くと、蔓草の絡まる低木を斬り払う。独特の青臭い匂いが飛び散った。

 また歩かねばならない。ふと女は一つの素朴な疑問を思いついた。


「一番怖いのは、何ですか」

「……集落に出れば教えます。今は余計なことを考えるのは止めて下さい」

 

 男は言葉を濁し、再び先頭に立つと鞘を振りながら歩いていく。


「熊避け、ですか」

「ええ、それもあります」


 本土に生息する月輪熊は本来大人しく臆病な動物で、人の気配を感じれば、大抵は出くわす前に驚いて逃げ出してしまう。だが、突発的に行き会えば、恐慌状態となった熊は、まず間違いなく目の前の異物を取り除こうとして襲いかかってくるのだと、男は呟いた。


「……地方によっては、入山する者には、必ず音の鳴るものを持たせるところもあります」

「以前は、猟をされていたの」

「否、知り合いに猟師がいまして。これらは全て本職の者から習ったことです」

「ああ、そうでしたか」


 生きた情報は値千金。現場の知恵は、素人でもそれなりに応用が利く。


「それで、一番怖いのは何ですか」

「……後にして下さい。野盗に気づかれますよ」

 

 無論、こんな人里から離れた山奥を住処とする野盗など、物好きを通り越し、仙人や世捨て人の類に分類される。廃道になって久しいのか、これまでの道中には人の手が入った形跡が無く、山道の大半は倒木や夏草に埋もれていた。

 傍らの大樹はヘクソカズラに覆われ、根元には体毛を含んだ獣の糞が見て取れる。


「一番怖いのは……」

「私を困らせないで下さい。別に貴女に話したくないのではありません」

「ならば」

「話せない理由があるのです」


 そう言いきると、男は黙々と再び道作りを始めた。

 熊山さわげ、犬山だまれ。

 各地の伝承と同様、備前の山間でも語られる生活の知恵なのだが、女にはあまりピンとこなかったのか、少々いぶかしみながらも、しぶしぶ男に付き従った。


【ヤマビル】

 顎ヒル目ヒルド科の陸生ヒルの一種。この時代だけでなく現代まで「ヤマビルは上から落ちてくるもの」という俗説が幅を利かせている。

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