26・備前天神山攻防戦4-1
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天文二十三年七月十日(1554年8月8日)、快晴が続く。
風は微風。濃い夏の青空には小さな綿雲が浮かぶ。天神山一帯を真夏の日差しがじりじりと頭上から容赦なく照り付け、この日は正午を待たずして夏日を迎えていた。
盆地の茹だる暑さの中、わあわあと賑やかな男達の声が響く。
室津勢が到着した翌朝、新宮党首尼子国久が天神山総攻撃の指示したことで出雲尼子氏と室津浦上氏による二正面作戦が始められた。城内の浦上宗景の兵とは異なり、この二つの勢力の兵士には、炎天下の日光を頭上から守ってくれる日陰が無い。そのため尼子兵も室津兵も額からの汗を拭いながらの攻勢となり、中には少しでも暑さの対処になればと頭から水を被りずぶ濡れのまま突撃していく兵士の姿も見えた。
二日間に亘って続いた尼子軍による挑発行為はいずれも不発。佐伯集落の尼子国久は苅田狼藉、火付け、悪口など、思いつく限りの手段で焚きつけてみたが天神山の浦上宗景に動きは無く、かえって貴重な時間と兵糧を浪費するだけに終わっていた。
尼子国久の予見通り、天神山城北西の戦闘は序盤より宗景勢の優勢。七条政範ら西播磨の地侍が山道に伏し、寄手を城門まで近づけまいと迎撃に当たる。
両軍、抜群に猛威を振るったのは印字打ち(投石)。
尼子勢は近くの河原から、宗景勢は石垣に使用する予定の集石場から。大小様々な岩石の中から大きなものは一つ、小さなものは二つほど手頃なものを選び出し、素手でそのまま投げる者もいれば、裂いた打飼袋や手拭いを利用してスリング様にして放り投げる。
非常に原始的な手法だが、素材が何処にでも落ちていて、時として弓よりも飛距離を有し、しかも連射が効くという特性はどうしてなかなか侮れない。投石に長じた者であれば有効射程は百間を優に越し、山の登り口で長蛇の列となった兵士達の頭上から雨霰と降り注ぐ。
そうなった時、最終的に物をいうのは地の利となる。
宗景勢は城の木塀や盾などの防御施設に加え、矢倉等で位置エネルギーも味方できるのに対し、国久勢はほぼ丸腰で高所の敵を狙わねばならない。ただでさえ動きが制限される山の進軍路において、下手に城方に接近すれば城内の弓兵からは格好の的となる。
敵兵からの狙撃に怯えながら歩を進めたところで、肝心の石の補給すら宗景勢が城の中に複数箇所の集石場を配置させていたのに対し、尼子勢は手持ちが尽きれば再び河原まで降りねばならない。
手数の不利は形勢の不利。
攻め難きこと赤坂千早の城の如し。我が軍に吉川八郎は居らぬものかと尼子国久は陣中を探させても、古い太鼓丸砦ならばいざ知らず、新しい天神山城内を知る者など存在しない。仕方無しに力攻めを続けても被害が増すばかり。
目立った戦果もなく怪我人が増えた事で、これではいかぬと尼子国久は一時撤退の鐘を鳴らして兵を引き下げさせた。




