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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十四章・備前天神山攻防戦【天文二十三年七月四日(1554年8月2日)~】
226/278

26・備前天神山攻防戦3-1


 ―3―


 

 天文二十三年七月九日(1554年8月7日)、快晴。


 遅ればせながら室津浦上氏の軍勢が天神山の南、衣笠山の地に到着したのはこの時期だった。


 距離としては近いはずの室津勢が遅参したのには明確な理由がある。


 確かに、室津浦上氏当主、浦上政宗が置塩城の赤松家に室津攻めの意思が無い事を確認するのに多少時間を喰ったというのはある。だが、それ以上に、備前独立派が敷いた播備国境の防衛線を迂回し続けたことが遅れの最大の原因となっていた。


 赤松家内部の密偵から即座に軍を起こした室津勢ではあるが、当然その動きは備前独立派にも感知されていた。直ぐにでも尼子軍と合流したい政宗らに対し、備前独立派の重臣明石氏は国境の要衝三石に陣を構え、畝坂峠に封鎖線を敷くことで室津勢の北上を制した。


 備前独立派のこの動きは、事前に予想されていた事ではあった。


 狭隘な畝坂峠は守るに易く、突破した先には東備前第一の堅城三石城が待ち受ける。とてもではないが通れたものではない。室津から天神山までの最短経路を潰された政宗は、有年八幡山へ一部の兵を回し、封鎖線には封鎖線をとばかりに畝坂峠を降りてくる明石勢への備えとした。


 残された道は南側。


 海沿いの道を進み、高取、鳥打の二つの峠を越えて日生(ひなせ)から北上し片上の地から吉井川を遡るルート。これならば、途中室津浦上氏の重鎮、浦上国秀の領内を通るほか、宿老を務める高取山城の島村盛貫(しまむらもりつら)ら東備前の親尼子派からも援護も受け易い。


 この道を選ばぬ道理はない。


 それに、悪い話ばかりではない。

 彼らにはどうしても安全な道を確保した上で尼子氏と合流せねばならぬ理由があった。


「配置に着いたが、使いの者はまだ見えられぬのか」


 政宗は名黒山向こうの、見えるはずも無い遠い佐伯の地に視線を向けた。


 現在、室津勢の後方一里半、備前片上の地には海路を利用して運び込んだ兵糧が所狭しと集積されている。


 道さえ確保出来ていれば船による大量輸送が可能となる。美作で尼子軍全体が糧食に難儀している事を聞きつけた政宗は、短期間ながら瀬戸内中の商人に声を掛け、有らん限りの分量の兵糧をかき集めた。彼の努力の結晶だった。


「……思いの外、坂越越えには手間取りましたが、なんとか尼子殿との期日には間に合いましたな」


 そう言って尼子の使者を待ち侘びる政宗に声をかけたのは、政宗の叔父の浦上国秀。彼は馬上から政宗を見下ろしている。


「戦場故、馬上より御無礼つかまつる。我が富田松山にも無事荷が運び込まれたことをご報告に上がりましたが、お邪魔でしたかな」






【日生(岡山県備前市日生町)の由来について】


 日生(ひなせ)の名の由来は、かつて日生(ひなせ)が「ヒナシ」と呼ばれていた時代が存在していて、これは朝陽が昇る美しさを表した『日那志(ひなし)』という古い日本語に由来する。

 しかしながら、時として『日生はかつて星村と呼ばれていた。それは村の中にある星神社に由来するもので、火事の多かった星村では星という文字を切り分け、日と生の二文字にわけて火事避けを願ったために日生(ひなし)と呼ばれるようになった』とする言い伝えを紹介される事がある。

 これは一見すると正しいようにも見えるが、星神社が日生が日那志と呼ばれていた時代以前に存在した記録はなく、残念ながら日生町史においてもあくまでも俗説だと否定的な立場で紹介されている。


【星神社】


 岡山県岡山市北区真星の神社。今より約千四百年前、白鳳時代のある霜月十三日の白日、突如黒雲が空を覆うと雷鳴が響き始め、以降三十五日間山全体が鳴動する異常現象が起きた。地元の村人らは恐れて誰も山に近寄らなかったが、異常現象が落ち着いた後、山頂からは星の如く光り輝く巨岩が発見された。怪しんだ村人らが地元の陰陽師に占わせたところ、「天から三つの星、三つの磐座が落ちて来たのは、これはイヅノオバシリノカミ、ミカハヤヒノカミが現世に現れたのだ」との示しがあった。

 この(しるし)を得た村人は畏怖と敬意を込めて同地を真星と名付け、磐座を祀った神社が建立して星神の宮として崇めたのだという。

 霊験あらたかさは相当なもので、社史によれば、後世、備前国を治めた大名宇喜多秀家が岡山の地に城を建てる際には城の真柱をこの神社の神域から切り出すように星神社に御神木を乞うた記録が残されている。

 明治四十二年五月十一日に天津神社、疫神社を合祀し、今に至る。

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