26・備前天神山攻防戦2-1
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天文二十三年七月七日(1554年8月5日)朝、天候は晴れ。
風は微弱ながら南寄りに流れ、これから気温が上がることを知らせている。
吉井川を南下して矢田集落を占拠した尼子軍は、南の竜ヶ鼻村、それと対岸の市場村などの川沿いの舟渡場を抑えると、その先の川の湾曲部西岸、比較的開けた佐伯の集落に陣を敷いた。彼らはこうした村々を重要視したのには、川の水運を利用して兵士や物資の運搬の手間を軽減することを目的としていた。
「……浦上め。嫌な場所に城を作ったものだ」
佐伯集落の東、天神山を見上げた新宮党の長、尼子国久の第一声が『それ』だった。
備前天神山攻略を目的とした尼子勢は、新宮党を主力とするおよそ三千名ほど。
対して、浦上宗景の籠る天神山は、吉井川沿いの切り立った地形を利用した標高三町(約300m)の急峻な山城で、本丸から麓まで直線距離で十町を超える長大な規模を誇っていた。尼子随一の猛将といえど僅か三千の兵では分が悪い。
「親父殿。全軍に一日休息を取るように伝えて来たが、これからどうする」
国久の後ろから声を掛けたのは国久の嫡男、誠久。先程まで部下とともに河原から手頃な大きさの石を拾い集め、野営用の竈造りに専念していたらしい。誠久の額にはうっすらと汗が滲み出ていた。
「御苦労。どうするもあるまい。御屋形様があの城を攻めると決めた以上、ただ攻めるより他に手立てがあると思うか」
「……しかしよう」
現在、備前国内に尼子家当主の姿は無い。
当主晴久は、鎮圧したばかりの美作国内に留まっている。未だ美作全土で燻り続ける一揆の火種が再燃せぬよう、民衆の監視と遠征のための物資調達を、当主自らの責任で全うするのだと公言していた。一応道理ではあるが、実際のところは、国久らを前線に送り込んで政治の場から遠ざけ、その間に美作国内での晴久派の影響力を強めたいという露骨な意図が透けてみえた。
ゆえに、土一揆後で荒廃した美作国内では、牛尾幸清、江見久盛などの晴久派が中心となり、本国出雲はもとより播作国境の志引峠を通して再搬入されてくる兵糧をそのまま配給用に回し、撫民のための実績を積み上げ、晴久派の発言力を強めていると聞く。
『民から奪う悪い尼子は新宮党。民に施す良い尼子は出雲のお殿様』
子供騙しの様なイメージ戦略だが、飢える領民相手には上々の成果を挙げている。誠久はそれがどうにも気に食わない。旧来、美作国は新宮党なしには地元国人衆との渡りもつけられてなかった。それが今回の晴久派の台頭で、新宮党の既得権益までが奪い取られている。
「備後での不覚が無ければ今頃は立場は逆だったろうにな……」
「…………」
あの時、自分達が独断で播磨戦線から兵を引き上げたのは、備前西部に侵入した備中三村氏と毛利軍を相手に大立ち回りを行い、備後戦線の借りを返すためだった。
それが蓋を開けてみれば、備前に侵入した備中勢は報告よりずっと少なく、毛利の旗印も数えるほどしかなかった。加えて、美作国内の土一揆に巻き込まれることを恐れた備中勢はそもそも積極的に兵を動かす気配がみられず、焼き働きや刈働きによる報告こそ連日のように届けられてはいたが、それ以上の被害はほとんどない。
尼子の兵士が近づけば備中勢は蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げてしまう。
戦いはいたちごっこの如き様相を呈し、備中勢も毛利軍も備前金川城攻略を諦め、松田領に対する嫌がらせに戦略を切り替えた事を意味していた。




