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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十四章・備前天神山攻防戦【天文二十三年七月四日(1554年8月2日)~】
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26・備前天神山攻防戦1-2

「正に鬼神。音に聞こえた尼子の精鋭、紀伊守(国久)率いる新宮党の用兵というものを思い知らされた。あれと真正面から戦おうなど正気の沙汰ではあるまいよ」


 八郎次郎の言葉に、政範はごくりと唾を呑む。若者にとって尼子家随一の猛将とは初の戦闘。父政元も赤松総領家も打ち破ってきた難敵が相手となる。


「……そう気負いなさんな。以前、この場所での築城を妨害せんと尼子勢が侵入した際には、皆の踏ん張りで見事撃退せしめた。あの時の威力偵察目的だろうが、ここの地形を利用すればそれなりの数の尼子兵が相手でも斬り結んでなんとかできる」


 呵々大笑。若者の不安を吹き飛ばすかのように男はからからと笑ってみせた。一応、その時の戦功によって牧氏は高野郷のうち草加部分の加増を認められた。


「なにか、勝算があるのですか」


「否々、勝敗は兵家の常。笹部様のこと、最も良い時機を見計らって周匝の城を棄てなさるだろうさ」


「それでは本腰を入れた尼子には勝てないでしょう」


 呆れたように反論しようする政範の口を指で制し、男が言う。


「……確かにもう間もなく尼子が来る。(それがし)の見立てでは、明日か明後日か。食える時に食い、眠れる時に眠る。今は気を抜いていても良い。城攻めが始まれば飯時はおろか昼夜の区別も無くなる。直前まで英気を養うのが肝要なのだ」


「なぜ私に」


「ははは。実は、(それがし)の息子の一人が笹部様の傍に()るのだ」


 年は政範と同じくらい。背格好も似ているらしい。今回の籠城戦が初陣となるらしく、親バカながらもなかなかに目端も機転も利く将来有望な奴なのだと八郎次郎が照れくさそうに述べると政範も初めて顔を緩めた。


 なんとなく、男が政範に声をかけた理由が分かった気がした。


「本当ならば、親の某が、あやつの成長振りを傍で見てやりたかったのだがなあ……」


 美作全土が立ち上がると決めた時、指揮官の乏しい一揆勢のために国人衆の一たる牧一族も覚悟を決めた。父と子は己の血を残すべく分散し、父は美作で、子の一人は備前で戦う事を選んだ。


(それがし)も息子が尼子を押し留めてくれたお陰で、こうして天神山まで生きて辿り着くことが出来たのだ。親に似ず、出来た孝行息子なんだがなあ」


 それきり男は黙って北西の方角を眺めては、せめて息子の影だけでも見えないものかと、櫓の天辺からなんども首を覗かせていた。


 牧八郎次郎の願いも空しく、周匝落城を知らせる狼煙が上がったのは翌五日の夕刻。


 城兵らは粘りに粘り、攻め手にも城方にも多くの被害が出たらしい。


 幸いなことに、笹部勘解由、笹部勘二郎親子ら籠城していた主だった将に被害はなく、夜の闇に紛れて城内の生存者が続々と天神山へと引き上げてきたとされるが、その中に牧八郎次郎の息子の姿はついぞ見つかる事は無かった。

【牧八郎次郎(真木八郎次郎)】

 美作国東北部の将。美作古簡集註解上には天文廿三年正月二十日、浦上宗景の家臣入谷景藤が真木八郎次郎に対して天神山城での戦闘にはせ参じた功により「高野郷之内草加部分」の当地分を与えていた書状が残されている。


【牧八郎次郎の息子のひとり】

 通称・伝次郎(ただし次郎とも伝えられるの意かも知れないとのこと)。天文廿三年七月すさい大手にて討ち死に。享年の記載なし。

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