25・播州上月奪還戦二4-2
「そうだ、あれとの別れは済ませたのか」
政範と雪姫の逢瀬は短い。新婚早々、政範は戦場から戦場を渡り歩いている。それゆえ、限られた時間の中で二人は二人なりに夫婦であろうとする。
戦場に出ずっぱりの政範だが、たまに帰還できた時にはなるべく多くの時間を共に過ごそうと決めている他、折を見て近況を手紙でやりとりを行っている。
この手紙については、政範の妹が代筆している事もあった。
雪姫の世話は、基本的には妹の花が居る間は花が介助に当たる。だが、花は花で本業の七条屋敷の家事手伝いとしての仕事があるため、花の居ない日の雪姫の世話役として他の家人かあるいは政範の妹が付くこともあった。
政範の妹の名前は残されていないものの、少なくとも二人の妹が居たという事が家系図として残されている。雪姫の傍に付いていたのが上の妹だったのか下の妹だったのか、そこまでの記録はない。
三通のうち二通は政範の妹がしたためたもので、残りの一通が雪姫の直筆か、もしくは彼女の妹の花が代筆したものが政範の下に届けられた。
「一応、口頭では伝えております」
夫の留守が多い戦国期の夫婦としてはそれなり順調なものといえた。他に女性を作らぬ政範の姿勢に好感は持てるが、則答としては不満を覚えぬわけではない。長男正満は子を残したが、則答の孫はまだ男児が一人のみ。正満の妻はが置塩城内で死去していたのもこの時期に当たる。
「……もし何かあれば政直か、兄の子に」
「縁起でもない事を申すな。お前も早く子を成せ。もう少し世の見え方も変わろう」
戦国期の乳幼児死亡率は地域によって異なるが、概ね三割から四割。
子供の死が身近にあった室町時代後期、地方豪族の家族形態は合同家族をしている。そのためか、直系の者のみが子孫を残し、次男坊三男坊は一片の土地はおろか妻子すら持てないまま世を去る者も珍しくはない。
政範とて、兄の死がなければ恐らく妻帯は無かった。
一地一作人制を敷いて、農地一筆ごとに耕作人が存在する小農の自立化が進むには今少し時間がかかる。
「お前が気に入らぬとなれば、誰ぞ室を入れるが……」
祖父の提案を政範はやんわりと断ると、そのまま振り返ることもなく足を進めた。
政範と共に出立するのは、高島正澄、太田新兵衛、小林満末の三家老を筆頭に、川島、真嶋、春名、岡本などの佐用家ゆかりの諸将に加え、足軽十五名を含めた三十名ほどの規模となる。小規模ながらも佐用家を代表する人間が揃い踏む。
めいめい持てる限りの食料を持ち、打飼袋をぱんぱんに膨らませながら三日の行程を経て天神山を目指す。
途中、南下する尼子軍と行き遭う事を恐れ、美作土居からは滝宮越えを行う事でやり過ごす予定ではあったが、彼らが天神山に辿り着くまで備前美作国境の防衛ラインが死守できているかはかなり微妙なものとなっていた。
実際、政範の出立後間もなく井ノ内城は尼子勢による二度の総攻撃を受けて落城する。
経過としては、誰もが予想した通り城方は最初の攻勢で北の愛宕山砦を失い、北の敗残兵と共に南の大山砦に追い詰められてから攻め落とされるのだが、この時の出来事と思しき昔話が存在している。
それは、井ノ内城の南東に位置する琴弾の滝、天石門別神社にまつわるもので、美作国から尼子軍の侵攻から逃れる一団の中に敬虔な若い夫婦が居たのだそうだ。
一揆勢に参加していた夫は、妻を逃すために井ノ内の城に籠り、尼子の兵士と戦い続けて時間を稼いでいたのだが、北の護りを失った城には最早尼子の猛攻を押し止めるだけの余力が残されていない。連日連夜、休みない攻防に精魂ともに尽きつつあった。
そんなとき、備前美作国境を越えた避難民らは、そこから更に東の播磨方面と西の備前国中央方面に行く組に分裂し、妻は播磨方面の集団と行動をともに琴弾の滝で休息を取っていた。ふと気が付くと、彼女が覗き込む滝の水鏡には絶体絶命の城内が映し出され、落城のときが刻一刻と迫っていることを知る。
虫の知らせか神の思し召しか、夫の危機を悟った妻が滝近くの神社で熱心に祈りをささげると、俄かに黒雲が立ち昇り、周囲はたちまち前後不覚になるほどの豪雨に見舞われた。
雨に視界を奪われた尼子兵は混乱し、攻城の手を僅かに緩めた。その隙を縫って、夫を含めた南砦の一揆勢は脱出を敢行。寸でのところで南砦の全滅を免れ、再開を果たした夫は事と次第を妻から聞き、琴弾の天石門別神社の霊験のあらたかさにあらためて信仰の心を深めたのだという。
この昔話については続きがある。
突如湧いた豪雨に助けられ、辛くも城を落ち延びた者の中には下山一族の者も存在し、そのうちの一派が備前南部まで行き着き、そのまま美作国に戻ることなく、現在の倉敷市内にて下山姓を残したまま帰農した家系が存在しているという。
この昔話が美作国ではなく備中国から吉備地方にかけて語られていたというのもそれが理由だというが、真偽のほどは分からない。
現在判明しているのは、政範ら佐用家諸侯の天神山到着が間に合った事と、それと前後するようにして井ノ内城が落ちた事。
天文二十三年夏、国境の戦はこれからが本番だった。




