25・播州上月奪還戦二4-1
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同、六月晦日(1554年7月29日)、早朝。
「もう往くのか」
夏の夜は随分と短い。朝の清浄な空気の中、昨晩から戦支度を整えていた七条政範に、彼の祖父、佐用則答が声をかけた。
「父が戻らぬ以上、私が往かねばならぬでしょう」
少し前から播磨備前国境の諸侯には、美作国南部、井ノ内城から救援要請の使者が訪れていた。井之内城の現在の主は下山氏。下山氏は以前は北条姓を名乗り、周匝茶臼山の笹部氏、鷲山城の星賀氏らとともに浦上氏に属し、備前美作国境の守備に従事していた一族となる。
それが十年ほど前の天文十三年、当時の城主・北条清氏(もしくは下山筑後守)の代になって美作後藤氏の侵攻を受けて井ノ内城は落城。城主清氏は後藤氏には従わず帰農し、付近の下山村へと土着する前後に下山姓を名乗るようになったという。
以降しばらく井ノ内の城には後藤氏傘下の武将に入り尼子氏寄りの動きを見せていた。
そんな井之内城が、今は尼子軍の猛攻を受けている。
これは美作土一揆発生の初期段階において、城が一揆勢の急襲に遭い占拠されたためといわれ、一揆勢を指揮していた旧領主、下山一族の手に再び城を抑え、敗れた後藤氏傘下の城主は命からがら美作三星城へと逃亡したとされるが、本当のところは分からない。
一揆勢のあまりの手際の良さに、美作後藤氏の手引きを疑う声が少なくとも江戸中期には存在していたらしい。
度重なる尼子軍の狼藉を見兼ねた美作後藤氏がわざと下山一族を引き入れたのではないか。あるいは、最初から一揆勢に引き渡すつもりで警護の手を緩めていたのではないか。
そんな噂がまことしやかに囁かれていたという。
実際、六月終盤の土一揆最終局面において、この井之内城から南の鷲山城にかけての防衛ラインは、一揆勢にとって非常に大きな存在意義を持っていた。
この時期、一揆勢は最大の抵抗拠点としていた美作国中央の中山神社を焼け出され、他国で再起を図ろうとして幾つかの集団に分かれて逃亡していた頃に当たる。そうした中で、南の備前方面に向かおうとする者達とっては井ノ内城から続く防衛線は美作国内最後の抵抗拠点になりつつあった。
また、一揆勢の中には、一揆に参加した者だけでなく、その家族や子供も含まれ、さながら流民のごとき様相で一揆勢は落ち延びていたとされ、この抵抗線が健在ならば、なんとか吉井川さえ渡り切れば国外への脱出路は確保できる。
その精神的アドバンテージだけで、井ノ内に籠城する者達は自らを鼓舞し続けていた。
「……己が家族が遠方へ逃げられるように我が身を捨て石にする。我らより侍ではないか」
やり切れんな、という即答の嘆きは、境目の民の宿命でもあった。
「今更美作に向こうたところで間に合うまい。行くなら備前にしておけ」
祖父の言葉に政範も大きく頷く。
井ノ内城の健気な頑張りも虚しく、七条屋敷に最後に届けられた救援要請の時点で、城内の情勢は相当芳しくない。一昨日の段階で、城内はかろうじて大手こそ突破されていないが、間もなく北の愛宕山砦の備蓄が尽き、南の大山砦と完全に分断されるところまで追い込まれている。
佐用郡諸侯の後詰を、自分達は強く待ち望んでいる。
そう言い残して使者は去っていったが、もし使者の言葉が事実であれば陥落は遠くない。




