24・播州上月奪還戦2-1
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天文廿三年六月十四日(1554年7月13日)、播磨国佐用郡上月城。
この日の夜、城内では水無月の月見と称して宴会が繰り広げられていた。
否、この日の夜だけではない。何かと理由をつけては連日連夜、宴が催され続けていた。現在、城は七条氏ではなく陶の支配下に置かれている。令和の世まで陶方の武将の名前が伝えられていないために、便宜的にまとめて陶将と呼ばせていただきたい。
二月に赴任してきた陶将らだが、彼らがまともに働いていたのは極々初期の間のみ。雑務や警護は赤松家や七条家に早々に丸投げし、自分たちはどっしり城の奥に居座って動こうともしなかった。
こと三月に尼子軍主力が東播磨に向かってからは、陶の面々の播磨諸将に対する所業はまさに虎の威を借りる狐。大国の威厳を傘に、何かにつけては護衛をしてやっているのだと矢銭を要求しては、曰く、来る尼子軍との決戦に向けて士気向上をはかるためだの、曰く、播磨は娯楽が少ない。酒宴でもせねばやってられぬだの、御託を並べては横暴な態度で接していた。
それが五月に入り、尼子の軍勢が美作に引いてからはますます非道くなった。
近頃では、昼間から女郎を呼んでは侍屋敷に連れ込んで酒色に耽り、酔っぱらった陶の兵士が近隣の村々に入り込んで市場で金品を強奪したり、村娘を匂引そうとするなどの実害が目に見えて増えてきていた。
こうした悪質な被害は統治者側としてはたまらない。
村の有力者も佐用屋敷に何度か陳情に来ていた。だが、なんとかしてくれと頼まれたところで、則答自身がどうにかしてやりたくても彼の権限でどうにかなる範疇を遥かに越えていた。
ゆえに、則答に出来たことといえば、わずかばかりの見舞金を手渡してただ耐えてくれ耐えてくれと慰める程度。頼りにされたところで泣き寝入りしかないとなれば領主の沽券に係わるのだが、相手が悪過ぎた。
「……上月の市に出る商人の数も随分減ったと聞く」
もともと佐用郡内の市は、播備作の三路を結ぶ上月の市が最も盛況だった。それが尼子との戦を恐れて行商人の数は減少傾向にあったのに加え、更に陶の面々の立ち振舞いによって減ったとなれば村としては死活問題となる。則答の苦悩を知ってか知らずか、奥の間より陶将らの豪快な笑い声が響き渡った。
「殿、こんなところにおられましたか」
上月城内の侍屋敷、広間へと通じる縁側から夜空を見上げていた則答の背後から大柄な男が声をかけた。身の丈六尺(約180cm)。佐用家三家老の一人、太田新兵衛則近。三家老の中でもやや年長の彼は、その名の通り則答から偏移を受けていた。
そのためか、則答としても頼み事をしやすかったのだろう。二月の以降、陶将らの接待にはこの太田則近が当たっていた。彼のその巨躯による威圧感も期待されていたのかもしれない。




