24・播州上月奪還戦1-1
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天文廿三年六月中旬(1554年)。はっきり具体的な日付は不明。ただ、十五日より前であるのは間違いない。
その日、七条屋敷近くにおいて当主七条政元と嫡男の七条政範、それに龍野赤松氏の重臣・肥塚某が集まり、地元の陰陽に詳しい者を呼んで、衰日、つまり全ての物事を忌み慎むべき凶日を避けるよう占わせたことが分かっている。
わざわざ地元の、という言葉を老人が用いていた所から占卜を行った者が唱門師(祭事などを取り仕切る民間の陰陽師。流れの者が多かった)の類ではなく、ある程度正当な学問を修めた人物だったことが伺える。
陰陽師と聞くと、いかがわしい古のシャーマニズムと結びついてぶかぶかの着物を着た人間が式神を飛ばすイメージが先行してしまうかもしれない。だが、実情はそうでもない。意外に思われるかもしれないが、この時代、各地の戦国大名と陰陽師の関係は切っても切り離せない関係にあった。
と、いうのも、日本の暦は、天安三(859)年以降、唐の時代に作製された宣明暦が採用され、京の陰陽頭・勘解由小路家の手で編纂されながら貞享元(1685)年末までの八百年余りにわたって同一の暦法を継続させている。
その上で、当時の武家の間では、戦を起こすに相応しい日時、戦を避けるべき日時という概念が存在していた。
一例として、敵を討つならば、春は庚辛の日、夏は壬癸の日、秋は丙丁の日、冬は戊巳の日、土用の甲乙の日。逆に、攻めるに避けねばならない日ならば、小の月の晦日に敵を討とうと勇めば生きて還れないなど、暦には出陣するのには相応しい上吉の日付がある。
もう少し深掘りするならば、昼に二時、夜に二時、人死にが生じる時が存在する。ゆえにその二時に合戦を行うならば慎重に事を起こさねばならない。こうした複雑な日付と時間の制約を知らずしては、勝てる戦でも勝機を逃す。そのため、暦に詳しい陰陽の者の手を借り、正しい時節を解析させねばならない。
政範の生きていた時代の常識。
何より大事なのは、占術の結果として実戦では不可能な解が生じようと、多くの場合、優れた陰陽師であれば時節の害を回避する秘術を有する。多くの戦国武将らはそれを知りたがった。この点においては、現代の医師と患者の関係にも似ているのかもしれない。
政範らが占っていたのは、陶の手に落ちている上月城奪還に向けた具体的な日取り。そんな重大な軍事機密を八卦当たらぬも八卦などという俄か陰陽師や拝み屋などに任せようはずがない。
「…………」
誰しもが沈黙の中で、目の前の陰陽師が繰り広げる妙技を注意深く見守っていた。
この日行われていたのは、六壬あるいは六壬神課と呼ばれる古の占術。
現代であれば、占いは迷信の一種に数えられるが、当時の占いは易学としてひとつの立派な学問。
戦国期を通じて易学に精通した人間は各地の大名から重宝されていた事が広く知られ、いつ何処で、誰に習ったかが易を行う者にとっては仕官にも関わる非常に重要なファクターになっていた。幸い、当国播磨は陰陽師の故郷。この時の占いには蘆屋道満の末裔を名乗る人物が関わっていたとされていた。




