幕間8「野間火と野間ンさまのお通り」(天文廿四年四月)
―幕間―
少しまた現代に帰る。
「……と、天文廿三年の五月、六月の段階では、毛利氏と陶氏の抗争はまだ対等。この時期の事を厳島合戦以降に毛利氏側が芸防引分と呼んでいた事からも、両者は実力伯仲していたんだろうね」
暗い室内に、青年の声が響く。
片や西国随一の知将、片や西国無双の侍大将。どちらもどちらか片方を完全に、それも早期に殲滅させねば出雲の尼子が食指を伸ばすことは目に見えている。国人衆も自分たちの身の振り方でさぞ悩んだに違いない。
「…………」
私はと言えば、小学生の時分に某国営放送で大河ドラマを視聴していた記憶こそあれど、毛利元就と厳島の戦いくらいは知っていても、それ以前の折敷畑合戦について覚えていることは殆どない。
「一応、毛利氏も吉見氏を完全に見捨てたわけではなくて、折敷畑の戦い以降、同じ六月に海路を使って陶領の周防国富田に兵を送り込んだらしい。けど、七月には呉や能美島などの広島湾岸の国人衆が毛利の手を離れて再び陶氏側が制海権を握ることになるから、憶測だけど、思ったような成果が挙げられなかったのかも知れないね」
後世の我々は、毛利氏が後に中国地方の覇者となることを知っている。そのために、厳島合戦前後の期間がまるで毛利勢にとって楽勝ムードだった様に思う人もいる。かくいう私もその一人だった。
「……で、翌年には、あれほど期待していた安芸の有力国人・野間隆実も、陶方の白井賢胤という武将の説得を受けて毛利方の仁保島と海田浦に攻め寄せてくる。これは毛利親子にとってはかなりの誤算だったらしい」
野間氏が内通した時期に関しては諸説あるが、わりと早い時期から毛利方の安芸諸将の様子は陶晴賢に筒抜けになっていたというから状況はかなりシビアだった。
「まあ、野間氏自体は翌年の四月、厳島合戦前になって本拠地矢野城を毛利に攻められて滅ぼさるんだが、地元だと彼らに関係する不思議譚が伝わっている」
それは『野間火』や『野間ンさまのお通り』と呼ばれる伝承。
あらすじとしては、天文廿四年四月、三原方面から攻め寄せた毛利元就の三男・小早川隆景の攻勢によって矢野城が陥落間近となったため、発喜山矢野城主・野間刑部興勝(史実では野間隆実)が奥方や一族の姫君を領内の吉浦へと逃がしたことから始まる。
しかし、もともと発喜山の城は小城。矢玉も兵糧も城の備蓄ではたちまち尽きてしまう。
これではいけないと、ある夜、城主興勝と五、六人の家来は密かに城を脱出し、まだ予備兵力のあった吉浦の茶臼山を目指す。
が、夜明けを迎え、夜行軍を終えたばかりの野間主従の耳には、自分達に迫り来る毛利の大軍勢の雄たけびと足音が飛び込んできた。こんな山の中にまで敵兵が入り込み、どこにも逃げ道は無いと思い込んだ野間主従は皆自刃してしまう。
だが、実際にはそのとき毛利の軍勢は発喜山を取り囲みはしていたものの、山中へは入り込んでいない。野間主従の自刃は、山の中にある鳴滝の音を勘違いしたために起きた悲劇だった。
翌朝になり、野間主従の遺体は地元の百姓たちの手で弔われ、主不在となった矢野の城は間もなく陥落。かろうじて全滅を逃れた城内の生存者が東に逃げ延び、隠れ住んだ場所には「落走」という地名が付けられたという。
そこまではわりとよくある落城譚かも知れない。
ところが、しばらくしてよほど気懸かりだったのか、夕暮れ時になると残された一族の様子を確かめるためか、野間主従の墓から怪しい光が抜け出して吉浦の街を飛び回るようなり、村人たちは「野間火」や「野間ンさまのおとおり」と呼んいたことが分かっている。
この話は昭和中期ごろまで子供の夜遊びを止めさせるためにも使用され、「野間ンさまに連れていかれると良くないから早くお家にお帰り」という風に土地の大人たちが話していた記録が地元の民話集の中に残されている。
かくして、出雲尼子氏は美作平定のために天文廿三年の七月まで、周防陶氏は津和野攻めのために同年八月まで、安芸毛利氏は広島湾を手中におさめるために翌年四月末まで、それぞれ一旦足を止める。
播磨はその隙に動き出す。
――チィィン……。
夜は深まり、山の冷気はいよいよ強まりをみせ、私達三人の夜はまだまだ続く。




