23・芸州折敷畑合戦3-2
房長は僅かに残った供廻りを纏めると、この辻堂原の砦跡を最後の陣と定めた。生還が絶望的な状況において、馬上の彼は最期まで勇を振るい、午の刻ごろまでに討ち死にを遂げたという。
その後、追撃を開始した毛利軍によって、敗走した宮川勢は、玖島、白砂、津田、友田、浅原の各地まで追われ、ほとんどの敗残兵が殲滅の憂き目にあい、この日毛利方が挙げた首級は七百五十余りにものぼる。
だが、大将首を挙げたにも関わらず、毛利諸将の顔色はこの日の天候と同様暗鬱としていた。彼らが欲していたのは、怨敵陶晴賢の首一つ。その首を取るために総力を挙げて動いてきた。敵総大将が、永正八(1511)年の船岡山合戦より度々戦功を挙げ西国では勇名を轟かせていた猛将とはいえ、これまで積み重ねた仕込みと比べれば、重臣の首一つでは到底苦労に見合う結果とは言えなかった。
実際、陶の一角を崩したにも関わらず、周辺諸侯は未だ陶と毛利の戦を拮抗状態とみなし、宮川甲斐守の死後も、山代一帯では毛利側の説得に応じることなく抵抗を続き、毛利勢の石見三本松城救援は実現不可なものとなった。
以降、毛利親子は一揆鎮圧に全力を挙げ、戦いの舞台は表から裏へ。陶も毛利も各地の豪族を取り込む調略合戦を繰り広げている。
それゆえ、毛利の支援が見込めなくなった石見吉見氏は、同年八月までに十二回に亘り陶軍の総攻撃を防ぎきって見せたものの、やがて主城三本松城を追われ、吉見方が主君の嫡子を人質として送り出す事を条件に、陶方と和睦を結ばざるを得なかった。
安芸戦線では毛利方の勝利、石見戦線は陶方の勝利。
両陣営がともに勝利を叫ぶ中で、依然として陶の脅威は去らず、両者による調略合戦は継続され、翌二十四年には毛利親子が援軍として期待していた野間氏も毛利を見限って陶方に靡くことになる。
毛利親子は、もう一度、完全な勝利を得るために大きな博奕を打つ必要に迫られていた。
余談だが、折敷畑の戦いにおいて、陶方の大将宮川甲斐守の最期については諸説ある。
馬が逸り落馬が原因で絶命したとも、「瑤池」と呼ばれる駿馬に跨って三里退却した後、元就麾下の末田新右衛門に津田・浅原あたりで討たれたとも、逆に辻堂原近辺で行われた乱戦の中で毛利方の小川助左衛門に討たれたとも、あるいは武人として現地で潔く切腹したとも言われる。
他の記録では、「熊谷信直麾下」の吉田相合催使あるいは末田新右衛門の手によって討たれたというものも散見されるが、はっきりとはしていない。
ただ、彼の死後、その亡骸は丁重に弔われ、遺体の両手の弓掛のうち、右の弓掛を外した際にその指の硬さに立ち会った者全員が驚き、生前の武勇を褒め称えたという。
齢十六にして船岡山合戦に赴き、時の将軍足利義稙より感状と刀を賜り、幾多の戦場を渡り歩いた宮川甲斐守、享年五十九。現在、折敷畑山に当時の戦闘を伝えるものは彼が自刃したという岩が残されているくらいだが、江戸の終わり頃までは彼を慕って甲斐守社という祠が建てられていた古い地図が存在している。
現代では、多くの場合において翌年に繰り広げられる陶と毛利の大戦、厳島合戦の前哨戦程度にしか認識されていないこの折敷畑の戦いだが、この六月五日の勝報は直ちに播磨に送られ、播州龍野の赤松政秀を経由して佐用郡の七条屋敷のもとにも届けられた。
この物語の主軸は、あくまでも播磨佐用郡の七条政範。
折敷畑の戦いの直後より、播磨国内における龍野赤松家と佐用七条家を主体とした上月城奪還に向けた動きが俄かに活発していくのはこの時期からとなる。
※近年の研究により、広く「房長」として知られていた宮川甲斐守の実名が、実は「房頼」だったという報告も存在しています。今回は平成年間に私が聞いた物語をもとに書いているため、従来通りの「房長」の名前を使用させていただきました。




