02・備州騒乱2-1
《 2 》
天文三年六月三十日。
午後の気だるい日差しは、備前砥石山(現・岡山県邑久町)にも降り注ぐ。
風が凪ぎ、蒸し風呂と化した八畳ほどの政務室の中で、宇喜多能家は机に向かっていた。
播磨での撤退戦の後、能家はすぐに隠居を決意し、息子の興家に家督を譲り渡していた。
勿論、それは自らの責務を投げ出すためではない。
能家は自家の舵取りは息子に任せ、内外より自らは幼い主君の補佐役として残りの人生の全てを捧げるつもりだった。正直、この時期の能家らの踏ん張りがあったからこそ、混迷期の浦上家の存続があったと言い切っても過言ではない。
浦上氏、当主討ち死にの報は西国全体に広がり、家臣の中でも特に高名な能家は他家の引き抜きを幾度となく受けていた。
だがその都度、角の立たぬように断りを入れ、混乱する備前国人衆らをまとめ上げ、国外に流出する地侍らを留めようと外敵には強い態度で望み、内部では繊細な気配りを行い、自らの首の皮一枚を担保として綱渡りをする孤軍奮闘を続けていた。
だが、限界が近いことも分かっていた。
すでに出雲の尼子経久が本格的に勢力拡大に動き始め、昨年からは備後国(現・広島県東部その他)は尼子の勢力下に置かれたと聞く。尼子氏の実効支配は十一ヶ国。対して浦上は備前国一国。最初から彼我の国力差は圧倒的。しかも当主尼子経久は能家以上の才と老獪さを持ち合わせている。同じ狸で例えれば、陰神刑部と豆ダヌキほどの歴然とした力関係。
能家の努力も虚しく、繋いだ端から切られていく。
上層部の政策に対しても、大名として独立にこだわろうとする浦上重臣の姿勢に反発する声がこの数ヵ月で随分増えている。咽喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人の常ではある。戦後の混迷期が遠ざかれば、皆の不平不満も吹き出ようもの。特に、尾根向こうの高取城主島村盛貫からの批判は激しく、事ある毎に突っかかり、顔を合わせる度に背後から罵倒が飛んだ。
人間、馬が合わないという言葉があるが、盛貫と能家の関係はその比ではない。
彼は、以前から能家を信用していない所はあったが、最近は猜疑心の固まりになっている。
「……これも皆が、浦上の未来を考えてのこと」
当主浦上政宗の取り成し(実際には叔父の浦上國秀)で、何とかやれているものの、進んで話しかけようとは思わない。
盛夏を迎えつつあるはずなのに、もう秋が来たような風が俄かに吹き抜ける。かつて戦場を溌剌と駆けた能家も、近頃はめっきり老け込み季節の変化に気付こうともしなかった。
そんな大人達の苦労を知ってか知らずか、砥石山城内では子供らの遊ぶ笑い声が一際目立って響き渡って聞こえてくる。
この時期、高國の娘は砥石山城内で世話になっていた。
父高國の死後、彼女の立場は浦上家内において非常に微妙なものになっていた。
はっきり言って彼女には何の利用価値もない。
高國の遺児を利用するには浦上の国力が足りず、今の幕府からは政敵の一族として命を狙われる可能性もある。かといって追い出すには義理に欠ける。もともと浦上氏が細川高國という男と知り合ったのも尼子氏の紹介があったからこそ。
下手な選択をすれば、それこそ尼子の軍勢を備前に呼び込む理由になる。
自然と、周囲は彼女に対して腫れ物の様に扱うようになっていった。
そして、彼女の容貌が優れていたことも、要らぬ敵を作る要因となった。
彼女を哀れみ近寄った男達は、彼女の美貌の虜となり、それが他の女達の妬心に火をつけた。
男の嫉妬は見苦しいが、女の嫉妬は恐ろしい。火中の栗は美味いが怖い。あることないこと尾ヒレを付けた噂が裏で飛び交うが故に、誰も彼女に手を差し伸べようとはせず、炎上覚悟で彼女を手籠めにするほどの人物は現れなかった。
そんな孤立無援な高國の娘を助けたのが、能家の義理の娘だった。
彼女は浦上氏の本拠地室山(兵庫県たつの市)を訪れると、高國の娘を女中として雇いたいと申し出た。
異例といえば異例。仮にも細川家の姫君をただの家事手伝いとして雇い入れようというのだ。
だが、ここに宇喜多側の策略があった。
浦上氏としては厄介払いが出来、しかも外交的には重臣が世話しているという名目が成り立つ。重臣邸の女中ともなれば他の男達が近寄る機会は減り、女達の嫉妬もやがて哀れみに変えていければ良い。
今は辛くはあるが、少なくとも高國の娘を皆が邪険にするような真似はしなくなる。
誰も損をすることなく、最大の利益を得る。これを兵法と言わずして、何を兵法と呼ぶだろう。
後は時間が解決するのを待てば良い。それまで彼女を保護することこそが肝要なのだと、それこそが能家の義娘が考えた筋書きだった。
筋書き通り、彼女の申し出はすぐに了承が得られた。
実際のところ、高国の娘が砥石山で女中として働いていたかどうかは定かではない。
もしかすれば、来客時限定の女中働きだったかも知れない。しかし彼女らならば、それぐらいの機転は思い至っていただろう。能家の孫、幼き頃の宇喜多直家も、高国の娘とその子供の来訪を喜び、まるで自分の弟の様に娘の子供に接している。
それが、高國の娘が平穏で何不自由のない暮らしを送ることが出来た、最初で最後の時期だった。




