19・西播怪談実記草稿九4-2(第二次高田合戦)
川岸から敵勢の囲みを解こうとする第二陣と、第二陣到着までに独立派の先陣を包囲殲滅しようと試みる尼子軍の戦闘は両者一歩も譲らず、最前線だけでなくこの旭川の河川敷でも両軍に多くの犠牲者が出る結果に繋がった。
それでも、午の刻までには独立派第二陣が尼子の囲みを突破、最前線との合流を果たす。
後方に退路が開けたことで午前から戦い続けた第一陣が後退を開始。政範ら第二陣は友軍の撤退を支える殿軍として川向うに留まり続けた。
この時、旭川を繋ぐ橋には戦場から逃げようとした備前兵らが殺到し、尼子の弓兵からは格好の的となっている。多数の足軽達が橋の上で狙い撃たれるのを見た備前勢は、徒歩で川を渡って行かざるを得ず、戦死した戦友の亡骸を見捨てて初夏の川を涙と共に渡っていく姿が各所で目撃された。
そして止めとばかりに尼子軍所属の赤穴隊が側面から追討ちをかけたことで、独立派の先陣は壊走。更に百を超える死者を出している。
第二陣が後退を始めたのは未の刻に入ってから。
尼子勢の再包囲が迫る中、政範の弟の七条政直は兄と共に退路を切り開くために、二正面の敵を受け持ちながら再度の渡河を行っている。
しかし尼子の猛攻が止むことはなく、撤退戦の最中、政直は追撃してきた敵兵から赤子の頭ほどの岩をぶつけられ、被っていた兜が修復不可能なまでへしゃげて脳震盪を起こし、寸でのところで死者の仲間入りを果たしかけた。
尼子軍の吾郷伊豆守という武将も首級を求めて駆け寄ってきたが、彼は備前勢との組討になり、高股二か所に手傷を負わされたために若党の肩に掛かって陣所へと引き上げていった。
なんとか七条兄弟は生還を果たしたが、両軍の死者は尼子勢四百に対して備前独立派八百余り。七条氏含めた佐用勢においては死者二十八名、負傷した者は数えきれないなど、初戦は散々なものとなった。
後方にて戦の一部始終を傍観するに留めた浦上宗景に対し、老臣の一人からはこれで本当に良かったのかという疑問の声も上がったが、宗景はなだめるように諭す。
「これはまだ序戦。儂が先んじて乱戦の中に旗本勢を入れておれば、恐らく打ち崩せていたことは必定。まず間違いはあるまい。しかし尼子軍もまた総大将尼子晴久もまた旗本勢を動かしておらんことを理解しておられるか」
独立派に後備えが無くなった事を知れば、必ず晴久はその旗本勢で攻めかかってくる。そうなれば全軍が総崩れになっていただろう、と宗景は言葉を選んで家臣らをじっと見つめていた。
実際宗景の予想を証明するように、尼子方の追撃はあったが川を越えての深追いはない。
「……明朝、儂らも兵を下げる。備前国境の城の諸城には我らの後退の助けとなるよう、兵を入れて堅固に守るように何度でも警戒の早馬を飛ばせ」
不服そうな老臣も主君の命令とあらば逆らえない。不満げな表情を残しつつも後方へと下がっていった。




